2013年7月28日日曜日

胸にとげさす極座標

Clip to Evernote
私が生きることについて明らかにしようとしたとき、具体的に大きく現れてくるものは、音楽と読書です。明らかにする、との表現に違和感があるなら、伝達可能にする、としても構いません。
生きることは、あまり具体的でない行為です。それを、具体的な何かをもって描写し尽くすことは、あるいは、過不足なく変換することは、決してできません。過程では多くの情報が失われます。

直感的には、標本化とか、デジタル化といった手続きに似ていると理解して良いでしょう。デジタルという言葉は、標本化しているとか、代表させているとか、そういった意味をしています。私などは、先にそれらの言葉を知識として得ていましたので、上述したような、変換すると情報が落ちてしまうような概念を、デジタル化との対比から把握するようになっています。

これは、言葉が先導して、思考のバリエーションを増やした事例と見ることができるでしょう。
言語が先行したり、またあるときは思考や感覚が言語を追い越したりしながら、それらは進展していくものです。言語と感覚の切磋琢磨です。

別の話をします。本ブログの昔のエントリで、地図のアプリケーションがどうこうという話をしたことがあります。
念のため繰り返しておくと、画面を拡大しても縮小しても、それは情景が異なっているだけで情報の総量としては変化がない、といったことを述べています。

少し見方を変えて言い直してみます。
いかなる視点を採用したとしても、その各々では目一杯のスカラ量を相手にしています。(2次元の)極座標表示 (r, θ) で考えれば、θを違えたとしても、r は基本的に同一なのです。

多くの方はここで、ロックバンド「PIERROT」の楽曲「HUMAN GATE」の一節を思い起こすことでしょう。
こちらのことです。
きっと誰もが同じだけの苦しみ背負いながら
それでも笑顔見せている
ここまでで述べたことは、私が日常を生活していく上で、基本的な思想の一つになっています。すなわち、視点が違ったとしても誰もが同じスカラ量の苦労を抱えていること、そして、それでも笑顔を見せていることです。

それを私は、先で触れた極座標表示の話としてだいたい把握することにしています。普段の生活では度々引き出す必要のある思想ですので、そうしておくと取り扱いに便利だからです。
こういった部分にも、数学を勉強しておくことの有益さがあります。端的に言えば、便利なのです。

話が逸れました。

私がそのような思想を抱くにいたったことには、明確なきっかけがあります。取り扱いのしやすい形に固めたのは「HUMAN GATE」や極座標表示であるものの、その原型が生成されたシーンは別にあるわけです。

ずっと、ずっと昔の話です。それも、ある音楽でした。
「青春時代」(森田公一とトップギャラン)です。
青春時代が夢なんて
あとからほのぼの思うもの
青春時代の真ん中は
胸にとげさすことばかり
正解は存じませんが、私は次のように理解しています。

青春の時分を、それが過ぎてしまってから、夢のようだった、素晴らしかったと振り返ることがあるかもしれません。ひょっとしたら、現状はそれほど素晴らしくはない、との前提があるのでしょうか。
しかし、まさにそのただ中にいるときには、今が夢のような日々だと思ってはいません。青春の当事者たちは、それが過去の自身であれ、別の世代の誰かであれ、誰もがある量の苦労を背負いながら日々を過ごしているわけです。

以上が、私の極座標思想のきっかけです。
そのような思想を持たないうちに、私はそのきっかけに出会いました。言うなれば、言葉だけを先行して得たのです。

いきおい、言葉と感覚の不調和が起きます。なんとかして解決したいと、私の無意識は考えたことでしょう。
ところが、青春時代についてあとからほのぼの思うためには、青春時代を体験し、それが過ぎ去る程度の時間が必要になります。さらには、青春時代の真ん中で胸にとげさされている、という条件も満たしていなければなりません。

言葉と感覚の不調和をなんとかしたいだけなのに、ずいぶんと制約が厳しいようです。
そこで、私の無意識は思い至りました。これはつまり、視点や立場が変わっても、その各々では同じだけの苦労に直面しているということだろう、ということにです。
また、派生として、誰も彼もはそれでも笑顔を見せているのだろうとか、余所の視点での苦労は往々にして小さく見えてしまうのかもしれない、といったことにも考えが及びました。

言葉に引っ張られて、私の感覚が進展した瞬間です。

さて、ここまで、いろいろと述べてきました。
私はこれらの話をほとんどすべてを、極座標表示という言葉に含ませて取り扱っています。あるいは、取り扱っているようです。
極座標表示という言葉に、籠めているとも、代表させているとも言ってよいのかもしれません。

すると、私はこのような考え方について表現しようとするとき、「ああ、極座標表示のようなものだね」と言うことになります。
実際に言ったことはありませんが、ずいぶんと情報が失われてしまうものです。


終わりに


とはいえ、苦労に関して量という概念があり得るのかどうかは、議論の余地がありそうです。