2015年7月28日火曜日

nカロリーの熱量で

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私が書く文章は、どうも、説明不足なところがあるようです。

こちらの記事を読みました。

R-style » 長文記事(Longform)とライターの力

長文の記事について、いくつか考察されています。Longform と呼ぶようです。

Longform な記事の様子を確認しておきます。
引用いたします。
H1に「01/13」とあるが、これは1月13日ではなく、13ページ中の1ページ目、ということだ。いや、その表現は間違っている。なんといっても、この記事は1ページしかない。1ページにすべてが詰め込まれている。すると、13コンテンツ中の1コンテンツと表現した方が良いだろう。
ページ、コンテンツ、との表現を試行されています。いずれにせよ、13の部分に分けられるほどの記事です。
とにかくボリューミーな記事なのだ。テキストだけでなく、画像もグラフも動画も入っている。いかにも「読み物」という感触の記事だ。
ボリューミー、とは、たまに耳にすることのある言葉です。個人的に、あまり意味がとれない言葉のひとつです。
日常会話でも現れることがあり、いつも、どういう意味かと考えているうちに、会話が先に進んでしまっています。

volume のことでしょうか。volume とは、容積、体積のことで、普段は大文字Vで略称されます。
面積Sの次元が2であることに対し、体積Vは次元が3です。
たて × よこ × 高さ、と言われるものです。かけ算の順序は関係ないはずです。

この、次元が違うあたりが特徴になってくるでしょう。

先に引かせていただいた一文から見ると、テキストだけならSで、グラフや動画が入ると volume になるというのは、悪くなさそうな理解です。

SとVの話題を続けるなら、私は普段から、できるだけ次元が広がらないように指向しています。
記事の話題に限りません。

書籍『ゾウの時間 ネズミの時間』(本川達雄)をご紹介します。
さまざまな生物の、サイズと生態との関連を調べています。

いたく感銘を受けた話題がありました。





生物の、標準代謝と体重との関係についてです。

標準代謝は、生物の酸素消費量を元にして測ることが多いようです。酸素消費量(リットル)から、エネルギー消費量(ジュール)を一対一で算出でき、かつ、酸素消費量は測定するのが容易であるため、とのことです。

何かしらの方法で測定した酸素消費量を、時間でわり算したものが標準代謝になります。ジュールを時間で割ったものと同じですので、単位はワットになります。仕事率のことです。

人間に関する場合は、基礎代謝と呼ぶ人もあるようです。
すると、ジュールのところは、カロリーとするのがわかりやすいかもしれません。

私たちの多くがカロリーでなくジュールを使うのは、後者がSI単位系だからに他なりません。
カロリーほど、科学者はあまり使わないのに、人口に膾炙した科学用語も珍しいものです。

体重の方は、説明は不要かと思います。単位はキログラムです。

いま、生物の標準代謝と体重との関係を見てみます。引用いたします。
重い方はゾウから、軽い方ではネズミまで、いろいろなサイズの恒温動物の標準代謝量を調べ、横軸に体重、縦軸に標準代謝量をとって、グラフに書き表してみよう。
いろいろなサイズの恒温動物が対象です。
このグラフが、興味深い特徴を示します。
つまり標準代謝量は体重の〇.七五一乗に比例する。〇.七五一は〇.七五、つまり3/4と統計的に差はないので、「標準代謝量は体重の3/4乗に比例する」と簡潔に言いならわしている。
あらゆるサイズの生物について、標準代謝量は体重の3/4乗に比例すると言います。しかも、同書の続きで言及される通り、恒温動物に限らずとも、当てはまるそうです。ミミズや昆虫のような無脊椎動物や、魚やカエルや爬虫類です。

特筆すべき性質に違いありません。
他方で、生物学にさほど造詣の深くない私にとっては、続く記述に興味を引かれます。





続く記述はこうです。
その割には、あまり教科書に出てこないのは、なぜ3/4乗に比例するかの、よい説明がないからだろう。
これほどに広範な経験則ならば、教科書などで頻繁に取り上げられても、なるほどよさそうなものです。私は聞いたことがありませんでした。

どうやら、3/4という数字によい説明がないようなのです。
事実を積み上げて見えた、経験則です。

いよいよ、次の意見に至ります。
説明できなければ学問ではない、という考えは、ごもっともだと思うけれど、理屈をこねない学問も、もう少し幅をきかせてもいいのではないかと、私は感じている。
よい説明が偉いということは、ままあることです。
同時に、説明がなくても、落ち着いて事実を認識することも、また重要なことでしょう。

理屈をこねない学問、とは、心に残る言葉です。

あらゆる領域に、説明を偏重した系が息づいているものと思います。
説明というのは、しかし、事実とは違う次元に広がっているものです。私は普段から、できるだけ次元が広がらないように指向しているのでした。

自分が考えたということを、私が、信用していないためかもしれません。

私が、自分について一番信用していないのは、自分が考えたことです。
ちなみに、次に信用していないのが、自分が話したことです。
一番信用しているのが、自分が書いたことです。
自分が感じたことが、どこに位置づけられるのか、目下、検討中です。





自分が考えたことと、話したこととは、内実たちをつなぐ鎖が、連想とか、解釈になるような気がします。説明も、ここに属するはずです。
書いたことだけは、論理だと思うのです。

こちらの記事を読みました。

R-style » 特権が変えるもの

一風変わったモノポリーが登場します。
最初に登場するのは特別ルールのモノポリーを使った実験。
被験者はペアとなってゲームをプレイします。ただし、片方は通常のルールでプレイ、もう片方は恵まれた人ルールでのプレイです。コイントスで選ばれたその幸運なプレイヤーは、サラリーが二倍もらえ、さらにサイコロも二個。これでは負けるはずがありません。
まったくの偶然により、一方のプレイヤのみが特権を得ます。
負けるはずのない状況です。
幸運なプレイヤーは、そのゲームに勝った理由を、自身の行動によって説明したそうです。資産をどのような意図を持って購入したか、勝つためにどんな戦略を練ったのか、どんな点に注意したのか。
負けるはずのないプレイヤは、自身の戦略について語ったそうです。説得力のない語りです。
記事の続きでは、絵空事、という指摘も出てきます。戦略が機能したのはまったくの偶然なのですから、絵空事に違いありません。
そうした存在がとる行動がすごくないはずがありません。
かくして絵空事ができあがります。
話題の流れは同じであるものの、少し立ち止まってみたいところがありました。

同記事中では、戦略と、絵空事とが、近い意味の言葉として機能しているようなのです。
記事の著者の方が意図されたかどうかはわかりません。読み返してみても、どうも間違いはないようです。

戦略というのは、その語感より、ネガティブな言葉なのでしょうか。

戦略とは、まだ起こっていない、未来に関する説明です。過去についての戦略はありませんので、間違いないでしょう。
どれほど理に適っていても、現実的であっても、変わりません。

空想や絵空事に似たものであると理解して、不都合は少ないのかもしれません。





事実と、説明とを、対比して見てきました。
互いに、別々の次元に広がっているものです。

内実をつなぐ鎖として、論理というものを、私は考えます。事実でも、説明でもないものです。

私が心得るところの論理とは、すなわち、ユーモアのセンスであり、思考の持久力です。
客観的とか、冷たい感じというのが、ふつう、論理的であることのイメージでしょうか。私が抱く論理は、それとは感覚が大きく異なります。





論理というのは、考えることとは違います。感じることとも違います。

論理を進めていく手順は、大まかに言えば、数理論理学、集合論に帰着するものでしょう。長い歴史があるものです。特に異論はありません。

他方で、論理には出発点があります。数学の言葉を借りるなら、公理(axiom)です。
ユークリッド幾何学をご存じの方には、私の指示している雰囲気が伝わりやすいかと思います。

どれほど注意深く論理を進めても、その論理の系が、出発点を自身で決めることはできません。
論理を進めていくことと、出発点と、二つを考慮することになります。

ユークリッド幾何学は、ユークリッドの公理を元にして展開されます。
その昔、ユークリッドという人が、できるだけ少ない、誰にでも受け入れられる出発点だけを設定して、厳密な数学を積み上げていきたいと考えました。論理の出発点です。

ユークリッドが決めた公理は、次の五つです。

・任意の点から任意の点へ直線を引くことができる
・線分を延長して直線にすることができる
・任意の中心と半径で円を描くことができる
・すべての直角は互いに等しい
・二本の直線に別の一本の直線が交わるとき、同じ側にできる内角の和が等しければ、元の二本の直線は、限りなく延ばすと、二直角より小さい内角がある側で交わる

書籍『数学小説 確固たる曖昧さ』(ガウラヴ スリ、ハートシュ・シン バル)にまとめられているものを引用させていただきました。
直感に反することのない、受け入れられる公理です。

ちなみに、五番目の公理は、明らかに他と様子が異なっているのが感じられるでしょう。過去のたくさんの数学者も、同じ不審を覚えました。
五番目の公理を使わずに幾何学を進めていくと、すぐに明らかな矛盾にぶつかるものと思われましたが、やってみると、そうでもなかったのです。
現代では、非ユークリッド幾何学と呼ばれる分野に発展しています。





非ユークリッド幾何学しかり、公理を疑うと、良くも悪くも新しい地平に至ることになるわけですが、それはまた別の話です。
個人的には、公理を疑うのは、既存の公理をじゅうぶんに検討し尽くしてからにしたいと思っています。

この決意が、どのような失敗をもたらすことになるでしょうか。

できるだけ少ない、明らかな公理だけを出発点にしようと志すのが、論理的ということです。常識とか、記憶とか、その他の実体のない感傷に依拠しないということでもあります。

この、常識とか、記憶とか、その他の実体のない感傷に依拠しないことは、私が日々を過ごすうえで、数少ない指針のひとつです。周囲の人についても、そのような人が、私は好きです。会話が楽しくなるのです。

先に、思考の持久力であり、ユーモアのセンスでもあると書きました。

たとえば、会話です。常識とか記憶に依拠しないということは、会話は、いま発された前提によって、積み上がっていくことになります。
もともと抱いていた記憶によって発言することはできません。持ち出せるのは常に、たったいまの情報です。

ちょうど、ミステリのような形というと、わかりやすいでしょうか。
ミステリでは、誰かの記憶によって話が進むことはありません。基本的に、前提知識が不要の読み物です。結論は、同じ本のどこかに書かれていた情報から、演算して出せるものです。

たったいまの情報を頭に入れながら、また、少し前の情報を参照しながら、急いで演算して、発言します。
平素から抱いている記憶を使えない分、困難です。思考の持久力が試されるところです。





たったいまの情報を、急いで演算すると書きました。

論理の出発点や、つなぐ鎖について、記憶を元にした、論理の外側からの評価が入らないことでもあります。
論理に間違いがなければ、直感に反していても構いません。直感なるものがあてになるかどうかも、あまり、わかりません。

これが、常識にとらわれない、ということでしょう。私の中で、論理的である、と似た意味の言葉です。

常識にそぐわなくても、よい論理であれば受け入れるということは、ともすると、変なことになります。
変なことであると頭の片隅で思いつつも、変なままで進んでいくというのが、すなわち、ユーモアのセンスです。
平たく言えば、ノリツッコミです。

論理的というのは、変であるとわかっていても、便乗することです。

数学もそうです。

「0 < n < 1000 である n がある」などと言うことがありますが、記憶や常識に照らせば、n なんて、どこにもありません。
身の回りを探しても、私は n を見たことはありません。触れたこともありません。n がある、などというのは、絶対に変です。これが常識です。論理の外側からの視点です。

常識を持ち出さず、n が存在するものであると、ユーモアで便乗して、論理を進展させていくことで、さまざまな、楽しい事柄に出会うことができます。





振り返ってみます。

事実と、説明と、論理と、大まかに三種類の言葉が出てきました。
事実には、あまり解説の余地はありません。事実があって、人が観測します。

説明と論理とは、どのように違うものなのでしょうか。
事実だけが厳然とあるので、考えのとっかかりになりそうです。

当エントリでは、説明は、「3/4 であるよい説明がない」という形で登場しました。3/4 であることが、事実です。

どうも、説明とは、事実より前にあって、事実をもたらすもののようです。理由とか、根拠と言い表してもよいでしょう。

他方で、論理は、「ユークリッドの公理を出発点に、積み上げていくもの」と描かれました。出発点のことを、ここでは事実と呼びなおしましょう。
すると、論理とは、事実よりも後にあって、事実を元に作り上げていくもののようです。

なかなかによい整理ができました。
事実よりも過去にあるのが説明で、未来にあるのが論理です。

事実を観測することを考えます。
観測が、間違っている可能性がある場合と、決して間違っていない場合と、二つの場合を想像できます。

決して間違っていない場合においては、説明というのは、まったくの無意味です。事実を観測すればこと足ります。

間違っている可能性がある場合には、説明の出番があります。よい説明を検討することで、観測そのものを検証することができます。説明の力が、誤った事実を取り入れることを防ぎます。

そして、現実の世界のほとんどで、観測は間違っている可能性があります。
どちらかというと、私には、論理の方を偏重する系が息づいているようです。論理ばかり、あるいは説明ばかり、振りかざすことのないように生きたいものです。





n は見たことがありませんが、ミカンならあります。

書籍『変わらないために変わり続ける』(福岡伸一)に、衝撃の話題がありました。
ご紹介します。

かけ算の順序についてです。
誰もが、一度は直面したことのある問いかと思います。

小学校などで、1人3個のミカンを6人に配ると、ミカンは何個必要でしょうか、という問題があります。6 × 3 = 18 と回答すると、式のところで減点されることになります。苦い思いをした方もあるでしょう。
かけ算の順序は、重要なものとして教えられます。

ご存じの通り、かけ算には交換法則があるので、数学的には、かけ算の順序は問題になりません。
算数が数学と違うかというと、確かに、違うような気がします。ここでは触れないこととしましょう。

話題は、著者の福岡さんがアメリカに滞在にしていたときのことです。
ふと、かけ算の順序のことを、ジェイソン君という同僚に聞いてみたそうです。
あ、全然関係ない話なんだけど、今さ、3つずつ6班に配るというかけ算の計算(ほんとはもう少し生物学的な話だったが、説明の都合上単純な例に)、6 × 3 と書いたでしょ。アメリカでは、そうやるの? 3 × 6 とは書かない? と。
ジェイソン君は、「3つずつ6班に配る」ことを「6 × 3 と書いた」そうです。私たちの教わってきたかけ算に即していません。
すると彼は怪訝な顔でこう言った。そんなこと考えたことなかったけど(そりゃそうだよね)、でも、アメリカでは小学校ではかけ算はみんなこう習うよ。3つずつ6班なら 6 × 3 、6つずつ3班なら 3 × 6 。なんとな。これじゃまったく日本と逆だ。
かけ算の順序が日本人のそれと逆なのは、ジェイソン君の気まぐれではありませんでした。アメリカの小学校で、習ったことのようです。
ジェイソン君いわく、だってごくごく自然じゃない。3つずつ6班は、six groups of three、6つずつ3班なら、three groups of six だもん。ここまで言われてようやくわかりました。
私も、はじめにここを読んだときには、思わず大きな声をあげてしまいました。
3つずつ6班は、six groups of three なのです。
そうなのである。かけ算の順序の論争とは、結局、言語の問題に過ぎなかったのだ。
日本人が、とても重要なものとして習ってきたかけ算の順序は、数学とは関係のない、言語の問題に過ぎなかったのです。





言いしれぬ衝撃がありました。

「数式に向かう時、僕たちは誰でも小さな数学者」(『数学ガール』シリーズ(結城浩)より)であるわけです。私だって、誇り高い、小さな数学者の一人です。

数学に、意味とか解釈を過剰に持ち込むことがないよう、あれほど注意していた私です。

数学は、私の好きな論理であってほしいと、ずっと、大きな熱量で思っていました。何ジュールでしょうか。
思いも寄らぬ、本当に根本の部分に、数学とは無関係な説明が潜んでいました。絵空事のようです。

私が、公理を疑おうと考えることがなかったわけです。これだから、自分が考えることは信用なりません。

次元が広がらないよう、surface を指向する私ですので、やむを得ないのかもしれません。観測が誤っていることがあるわけです。

観測の誤りに気づくための方法があったはずです。
私の考えることは、どうも、説明不足なところがあるようです。


終わりに


以上、私のユーモアのセンスでした。

75%くらいのできばえです。説明はありません。