2016年4月5日火曜日

flip for my mind

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自分の心に正直に、とか、自分が心から欲する、などということがあります。何やら、人気のある表現のようです。キャッチーさのためか、延々とパラフレーズすることができます。

私はいつも、できるだけ周囲から影響を受けようと思って、日々を過ごしています。
自分の心に正直に、といった方針は、混沌として、不安定です。初期値に鋭敏に依存してしまいます。日々の私の姿勢と、少し、対立したりもします。

興味深い言葉に出会いました。
雑誌『キーボード・マガジン 2016年1月号 WINTER』からです。バンド「パスピエ」のキーボーディスト、成田ハネダさんのインタビューです。

使用されている、コルグのSV-1というキーボードについてのコメントです。
それから、SV-1はピアノタッチのシンセの中では鍵盤が重い方の部類なので、 "SV-1はハードなアタックで引き続けていると手が疲れるかもしれないよ" という話を聞いていたんですけど、自分的にはそれがライブの熱量に変わって逆に表現しやすいかなと思っています。
SV-1は、鍵盤が重く作られているそうです。
鍵盤が重いと、やむを得ず、力強く演奏する必要が出てきます。その、力強く演奏すること自体が、ライブ演奏の熱量になると言われます。

よく考えてみたいところです。

ライブの熱量とは、ある感情のことでしょう。素朴な順序としては、何かの要因により感情が高まって、その結果、演奏が力強くなるはずです。

上掲のインタビューは、違いました。
鍵盤が重いので、やむを得ず力強く演奏します。その結果、感情が高まるのです。

不思議な関連があります。素朴ではない、という意図です。
フィードバックが遅れて到来する、と表現してもよいかもしれません。

私が、大事にしている思想のひとつです。感情とは後者のような事柄であると、いつも、心得ていたいのです。
鍵盤が重くて力を入れたために、気持ちが盛り上がってしまうことです。

アランが『幸福論』で語ることに、全面的に賛同する、ということでもあります。
気分に逆らうのは判断力のなすべき仕事ではない。判断力ではどうにもならない。そうではなく、姿勢を変えて、適当な運動でも与えてみることが必要なのだ。なぜなら、われわれの中で、運動を伝える筋肉だけがわれわれの自由になる唯一の部分であるから。
自分の本当に好きなこと、心から欲するもの、自分の心に正直に、などの言葉があります。当エントリの冒頭で書きました。
これらはすべて体調のことなのだろうと、私は理解します。感情や心を持ち出しても、話が劇的になるばかりで、当を得ません。
運動を伝える筋肉なら、多少は意のままになります。質量の大きいものに根拠を求めるほうが、何かと便利なはずです。むやみに困難な方針を採ることはありません。

他方で、感情や心が神聖に思えるのは、なぜなのでしょう。体調を重んじるにしても、整理しておきたい視点です。

書籍『単純な脳、複雑な「私」』(池谷裕二)が参考になります。

著者の池谷さんは、二つの論理を語られます。
一つは、心が神聖に思われるのが、それを複雑なものと感じられるため、であることです。人の脳のワーキングメモリに、処理容量の限界があることによります。

もう一つは、心が複雑に思われるのが、それを判定するのが心であるため、であることです。
すなわち、再帰です。
自分の心を考える自分がいる。でも、そんな自分を考える自分がさらにいて……とね。そんなふうに再帰を続ければ、あっという間にワーキングメモリは溢れてしまう。
心が神聖なものに思えるのは、それを思うのが心であるという、やむを得ない事情によるものでした。
だからこそ「心はよくわからない不思議なもの」という印象がついて回ってしまう。
再帰がもたらす、不確かな事象です。
あるときは心は神聖で、またあるときは神聖でなかったりするのでしょう。体調が影響しそうです。
だから、自分の心を不思議に感じるという、その印象は、いわば自己陶酔に似た部分があって、それ自体は科学的にはさほど重要なことではない。単にリカージョンの罠にはまっただけだ。
体調の方が素直で、私には、心よりも受け入れやすく感じます。いずれにせよ、感情と心を、無垢に神聖視せずにいて、構わないようです。

心に作用するのが体調であると考えました。フィードバックと呼びたくなる事柄かもしれません。妙に、広い意味で使われるきらいのある言葉です。
畢竟、外向きの誠実さを装うことは、傲慢さと、同じ意味です。

フィードバックとは、電子回路の分野の言葉です。ある系が、外界とのインタフェースとして入力と出力を持つとき、出力が、入力に影響するような仕組みのことです。
決定的な特徴として、カオスを生成する可能性があることが挙げられます。

ただ、私は情報工学の人間ですので、flip-flop を強調したくなります。こちらは、系が時間の概念を獲得できることが、決定的な特徴です。

系が時間の概念を持つこととは、系が内部状態を記憶できることと、同じ意味です。あるステップ t での出力を、t+1 の入力に使うことで、記憶を実現します。

不自然なキャッチーさは偏在するものです。カオスのことです。単なる数学的な事象に、他なりません。
フィードバックがカオスをもたらさないことも、当然ながら、あります。単調増加、振動、超平衡、などです。

系が、次の四つの性質を満たすとき、カオスであるといいます。

・非線形性
・有界性
・初期値鋭敏依存性
・非周期性

決定性を持つことは、暗黙に期待されているようです。私も、決定性のない系を、カオスと呼びたくはありません。
ちなみに、決定性があるとは、系の振る舞いが、状態と入力によって一意に定まることをいいます。おなじみの例は、コインを投げた結果の系です。いつ、表が出るか、裏が出るか、振る舞いを前もって定めることができません。

カオスを生成する関数としては、ロジスティック写像で、a = 4 としたときの式が有名です。


式から、ある n での出力を、n+1 の入力にしていることが読み取れます。フィードバックです。

整理すると、次の二点の性質があるとき、系にフィードバックがあると、私は判断することにしています。

・カオスを生成する可能性があること
・系が時間の概念を持つこと

仮に、出力が入力に影響する仕組みがあっても、これらの性質がなさそうだと、フィードバックという言葉には、かなり違和感が出てきます。

力強く鍵盤を弾くと、時間的な遅れを伴って、フィードバックが感情に戻ってくるのでした。今や、独特の趣を感じるようになった文章です。
システムが時間の概念を扱えるようにと導入されたのが、そもそも、フィードバックであるためです。

雑誌『サウンド&レコーディング・マガジン 2015年5・6月号』での、Seihoさんのインタビューをご紹介します。

コルグのSQ-1という、今日び珍しい、ハードウェアのステップシーケンサーについて語られたことです。
考えてみたら、手を動かすという行為のために買っているようなものなんです。言ってみればMaxのパッチで作って書き出しても同じようなものなのに、自分で作ったものだと信じられる過程……その過程なんですよね、曲作りって。
Max というのは、Cycling '74 社のソフトウェアで、音楽作りその他において、あらゆることをプログラミングできるものです。SQ-1よりもはるかに多機能で、自由度の高いものです。あえて、SQ-1を使う理由はないようにも思えます。今どき、PCからソフトウェアを操作して、いくらでも素晴らしい音楽を作ることができるのです。

Seihoさんは、そうではない部分に気づかれていました。

今の時代、なるほど、もっと容易に音楽を作ることはできます。手間がかかっていなくとも、自分が生み出した音楽に違いありません。私などは、よい音楽と製作の容易さとの間に、関連があるとは思っておらず、手間の少なさを否定する気持ちは、まるでありません。

それでいて、自分の手を動かすという無駄な時間の中で、作り出された音があります。つぎ込まれた時間は、音楽を、自分が作ったものだと信じられるようになる、過程のことでした。

自身で音楽を作ったという事実より、音楽を作った過程に目を向けます。過程には、手を動かすという運動と、時間の遅れがあります。
自分の心に正直になることよりも、心が神聖であることよりも、安定しているのでしょう。思えば、結果と過程とでは、後者だけに時間の項があるのです。
キャッチーさはありません。


終わりに


当エントリのはじめに、パラフレーズ、と書きました。
パラフレーズとは、敷衍という意味だと、私は理解しています。書いておいて何なのですが、誤用のような気がします。

つい、使ってしまいました。キャッチーだったためです。

私の感情が、非決定的だったのでしょうか。コイン投げで生成されたのかもしれません。