2018年12月31日月曜日

six albums of the year (2018版)

ずっと同じものを好きなようで、毎年、新しいものを好きになります。毎年、新しいものを好きになるようで、同じものを好きだったのだと気づくことがあります。

iTunes で音楽を買うことをやめ、サブスクリプションサービスの Spotify にすっかり乗り換えた、2018年でした。9月末からです。

大正解の判断でした。音楽を選ぶのにかかっていた時間が大幅に短縮され、実際に音楽を聞くことにかけられるようになりました。しっかりと聞くことのできたアルバムの数が、以前の3倍くらいに増えています。一枚一枚のアルバムを疎かに聞いたという感覚もありません。

聞いたアルバムが増えたためでしょうか、ライブやクラブに足を運んだ回数も、飛躍的に増えました。総じて、音楽に相対する体験が、比較にならないほど向上した一年です。自分の聞く音楽がぜんぜん足りていないことに、自分が気づいていなかったようです。

何の話かといいますと、私は毎年、その年でよかった音楽アルバムを、三枚選ぶことにしています。今年は六枚選ぶことにしました。



『Scene』 / Chihei Hatakeyama

アンビエントには、10年ほど前に興味を持ち、トライしてみましたが、当時は少しも良さがわかりませんでした。

私は絶対にアンビエントを聞くことはないと思いこんで生きてきました。なぜか今年、もう一度トライしてみようと思いました。驚きました。なんと素晴らしい音楽なのでしょうか。

Chihei Hatakeyama さんの音楽が良かったのかもしれません。2018年は、アンビエントと Chihei Hatakeyama さんの音楽に、独特の思い入れができた年です。



『Qualm』 / Helena Hauff

ミニマルテクノはかなり聞いてきたつもりでした。アンビエントを知ってみると、ミニマルテクノをアンビエント的な解釈で聞くことができると、気づきます。

まだまだ、ミニマルテクノのことをわかっていなかったようです。



『Death Valley』 / Astronautica

ミニマルテクノをアンビエント的な解釈で聞くことができると、その逆も可能になってきます。ミニマルテクノだとかアンビエントだとか、いったい何なのかと思ってきます。ずいぶん聞いてきたはずの音楽が、以前より、わからなくなりました。

それでも、私はこういった感じが好きです。



『yume』 / Maison book girl

今年もずっと、Maison book girl の音楽を好きなままでいました。アンビエントを聞くようになったこととあわせて、拍子の感覚が薄れてきたようです。私が思うよりはるかに、音楽は自由なものでした。

Maison book girl のライブは、受け手に、自由に受け取ってよいと言ってくれているような気がします。いつも、涙なしでは見られません。



『No.9』 / Hello, Wendy!

自由さでいえば、これほど自由な音楽もありません。シンセサイザーをずっと好きでいて、本当によかったと思います。

これも、涙なしでは見られないライブでした。



『room』 / jizue

自分がジャズを好きなつもりはありませんでしたが、つい聞いてしまう感じのジャズがあります。私は jizue の音楽が好きです。

本でも、絵でも、音楽でも、こういった感じのものが、私は好きです。空間を埋める感覚と呼ぶのが近いようであり、しかし、言葉になりません。

あと、昔から、私は妙に4人組が好きです。



それから、2018年には、はじめて本格的にヘッドホンを導入しました。Direct Sound の EX29 PLUS です。私はもう10年近くも、Etymotic Research のイヤホン一筋で使い続けてきました。なんとなく、EX29 PLUS が目に留まり、心変わりしてみました。

今のところ、大満足です。ヘッドホンがこれほどよいものだとは知りませんでした。Etymotic Research とは、ずいぶんと聞こえ方も異なります。音楽の聞き方はひとつではないのだと、改めて感じます。


終わりに


先に、ライブやクラブにたくさん足を運んだ一年だった、と書きました。要因には、毎週、一週間を振り返って情報と行動を整理する、という習慣ができたことがあります。いわゆる週次レビューです。
週次レビューをできるようになりたい、といった気持ちは皆無でした。突然、今年、欠かさずするようになっています。負担はありません。今後も続きそうです。

日々の生活の中で、このライブやアルバムが気になる、といったメモが残ります。週次レビューで読み返して、必要な行動につなげることができるようになりました。

週次レビューのことに関係するでしょうか、今年は Evernote の使い方が良くなりました。満足いく形で、Evernote を使っている感じがあります。うまく説明ができません。ともかく、手放せない、生活のための道具になっています。
Evernote を良く使えた要因は定かではありません。万年筆と名刺サイズの情報カード、ルーズシートを使うようになったことかもしれません。よい道具を使い始めたことは確かです。

ずっと同じものを好きなようで、毎年、新しいものを好きになります。毎年、新しいものを好きになるようで、同じものを好きだったのだと気づくことがあります。まるで、誰かの日常のようです。

雑誌『キーボード・マガジン 2019 WINTER』(リットー・ミュージック)に、音楽家の猪野秀史さんのインタビューがありました。エレクトリック・ピアノのローズ(Rhodes)ひとすじ、という感じの方です。
(インタビュアー) 猪野さんといえばローズというイメージがあって、今回のアルバムでもたくさんローズを使われています。これまでいろいろな形でローズを使い続けてきて、さまざまな試みもされてきたと思いますが、今でもローズの新たな発見はあるのでしょうか?
(猪野) ローズっていう楽器は、この世にあるたくさんの宝物の1つだと思うんですね。あらゆる瞬間を表現出来るような気がするんですよ。それだけキャパを持った楽器なんです。だから、仮にそれができないとすれば僕が悪いと思うんです。ローズは悪くない。そんなふうに思っていますね。
猪野秀史さんほどローズに向き合っている人は、なかなかいません。他の人には語れない言葉があります。

私は日常が好きです。私の好きな記事をご紹介します。

日常を支えるという非凡な能力 | Notebookers.jp

この文章をお読みの方も、そうでない方も、私と関わりのあった方も、なかった方も、私の好きな日常を、少しずつ支えてくださっている方々です。

ありがとうございます。
これからも、よろしくお願いいたします。

2018年12月23日日曜日

2018年の<びっくら本> #mybooks2018

今年は、万年筆と名刺サイズの情報カードでメモを書くことに気づきました。考えることとか、さまざまなことについて、私にはすごく合っているメモの書き方です。本を読んでいるときにも、同様にメモを書きます。

他方で、万年筆と情報カードとは、読書に必須のアイテムでもありません。私は本を読むことが好きで、他に必要なシチュエーションはないためです。

ここ何年か、変わらないことです。人生にはいろいろあって、日常のあらゆる場面はそれなりに変化しているのに、本を好きな様子が変わらないのは、不思議なことです。

こちらの記事を読みました。

【企画】2018年の<びっくら本>を募集します #mybooks2018 – R-style

私も本を紹介してみます。



『わたしは不思議の環』(ダグラス・ホフスタッター 著, 片桐 恭弘 訳, 寺西 のぶ子 訳)

階層と再帰のことを考え続ける人生があるものです。
きっと、自然な姿なのでしょう。"I am a strange loop." です。



『科学的発見の論理 上』/『科学的発見の論理 下』(カール・ライムント・ポパー 著, 大内 義一 訳, 森 博 訳)

買って読み始めたのは、2014年のことでした。当時は、はじめの十数ページしか読み進めることができませんでした。こんなに難しい本があるのかと思ったものです。

意を決して、今年、2018年にまた読み始めてみました。驚くことに、すいすいと読み進めることができます。難なく、とまではいわないものの、読み終えました。

独特の思い入れができた本です。
人間、4年の間に変わることがあるようです。日常のあらゆる場面は変化しているわけです。



『数学ガール/ポアンカレ予想』(結城 浩)

4年で大きく変わることがありました。100年かかってわかることもありました。
寒いときほど、春を思う心は強くなります。なるほど、微分方程式ができそうです。



『動きすぎてはいけない: ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』(千葉 雅也)

私もフランシス・ベーコンの絵が好きです。

本も、絵も、音楽も、ああいった感じのものが好きです。空間を埋める感覚、と呼ぶのが近いようであり、しかし、言葉にならない感覚です。

本も、絵も、音楽も、興味が尽きることがありません。言葉にならないことで、毎回、少しずつ新しいことを発見しているのかもしれません。



『カッコウはコンピュータに卵を産む 上』『カッコウはコンピュータに卵を産む 下』(クリフォード・ストール 著、池 央耿 訳)

当時は当たり前だったのでしょうが、UNIX(CLI)の専用端末には、ぐっとくるものを感じます。WindowsのアプリケーションとしてUNIX OSに接続できるのでも、Windowsの内部でUNIXを立ち上げるのでもありません。

この類の道具にぐっとくる感じをずっと引きずったまま、私は生きているような気がします。



『存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて』(東 浩紀)

ジャック・デリダも、道具について考えたことがあったようです。タイプライタで書くことにも、何かを喚起するところがあるのかもしれません。なんとなく、気持ちはわかります。



『南の島に雪が降る』(加東 大介)

人間の特徴なのか、何人かの人が関わると、得意なことが少しずつ違う人が集まるものです。

社会の基本的な仕組みなのかもしれませんが、社会がある前に、自然とそうなるのは不思議なことです。人間の方が、社会よりすごいということになります。

得意なことが少しずつ違う人が集まっている様子には、妙に胸を打つものがあります。
生物の特徴なのでしょうか。



『活動的生』(ハンナ・アーレント 著, 森 一郎 訳)

例えば、自分で何か作業をしているとき、または、ソフトウェアを操作しているときであっても、手触りのようなものを、私はとても大切にしています。

自分を信じられるというのは、こういう感じだと思うからです。



『ジャイロモノレール』(森 博嗣)

自分を信じられるのは、手触りのようなものですが、自分以外のものを信じられるというのは、論理が通っていることです。

いや、論理が通っていることは、信じることとは違うような感じもあります。

信じるとか信じないとかではなく、論理が通っているというのは、ああ、確かに論理が通っている、と感じることがすべてです。



『西田幾多郎の実在論――AI、アンドロイドはなぜ人間を超えられないのか』(池田 善昭)

2018年は、西田幾多郎の哲学に出会った年でした。ああ、確かに論理が通っている、と感じます。
世界とは、個物的多と全体的一との矛盾的自己同一の世界から成ります。

確かに論理が通っている、と感じるしかないことなのかもしれません。"I am a strange loop." だからです。


終わりに


本を好きな様子が変わらないのは、毎回、新しいことを発見しているからでしょうか。

2018年11月8日木曜日

11月といえば自分の好きなブログを告白する月…ということです2018

文章を読むことが好きです。書くことよりも好きかどうかは、難しいところです。読むことと書くことは、どうも、まったく異なった体験のようで、なかなか比べられません。

雑誌『サウンド&レコーディング・マガジン 2018年10月号』で、中田ヤスタカさんがインタビューに答えています。Perfumeの新しいアルバムについて、コンセプトを尋ねられたときの言葉です。
コンセプトというか、やっていることはいつもと一緒で、いつもと一緒だからこそ音が変わっていくという。
人間は賢くないので、可能性が狭まった、単純なものに惹かれてしまいます。手放しで礼賛できるものではないことは、理解しています。

そうした屈託がありながらも、可能性が狭まっていくことは、悪いことではないのだろうと思いました。
変わらずに同じことを続けていても、変わりながら続いていくことがあります。

何の話かと言いますと、11月といえば自分の好きなブログを告白する月なのです。
さっそく、始めます。



涯てお茶

文章を書くことを好きな人がいます。
どの記事も、楽しく読んでいます。文章を書くことがお好きだからだと思います。



iPhoneと本と数学となんやかんやと

Evernoteは、紙に手書きする人に向いているのかもしれないと感じました。
名刺サイズの情報カードは、年々、使う量が増えています。私の話です。



店主の雑駁

『鉄道模型趣味』を購読してみようと思います。雑誌が好きです。



やよこぶろぐ

私も、少しずつ、いろんなことがどうでもよくなり、すべてが無駄でないことを知り、優先順位がわかりやすく、時間が貴重なものになってきました。

良いことだと思います。



Word Piece 3

アウトライナーにサポートされた結果しか目にしていないものの、断片の量と混乱と意思に、私も、敬意を抱きます。



佐々木正悟のライフハック心理学

私は90%以上が電子マネーの生活ですが、レシートは必ず受け取っています。ScanSnapは本当に偉いと思います。



gofujita notes

ヘッダ部分が "on fountain pens and inks" に変わっていることがありました。初めての翻訳記事とありましたので、そのためでしょうか。

一枚紙(ルーズシートや情報カード)に万年筆で書くのが、私はとても気に入っています。綴じたノートがなんとなく使いにくいと、しばらく感じていたのですが、解消しました。



delaymania

私も Hysteric Blue と Sabão が好きです。2018年は、Sabão のアルバムが出るという、忘れられない年になりました。
Hysteric Blue で一番好きな曲は「グロウアップ」とのことでした。私は「Home Town」です。



R-style

私にはEvernoteがとても合っているようです。本当に、唯一無二のツールです。少しずつ使い方が変わりながら、変わらずに使い続けています。

情報を容易には「くれ」ないところ、アイディアが不用意に他と接続していってしまわないところがよいです。

綴じたノートが使いにくいと感じていたのも、おそらく同じ理由です。
人間は賢くないので、可能性が狭まったものに惹かれます。


終わりに


こちらの記事を読みました。

「あなたにとってブログとは?」 – R-style

お題と銘打って、問いが投げかけられています。
「ブログとは何か?」ではない。「自分にとってブログとは何か?」だ。
ブログで文章を書き続ける人への、敬意があります。変わりながら、変わらないことを続ける人への、感動があります。

私も、変わりながら、変わらずにブログを読み続けています。

この季節になると、毎年、考えることではあります。
私にとってのブログです。

2018年9月29日土曜日

高圧的ではふたが開かない

エジプトの壁画の、独特の筆致が気になります。全体的にくっきりとした、強めの筆圧です。当時の筆記用具のためでしょうか。くっきりとした雰囲気が、コミュニケーションに有利だったのでしょうか。筆致を工夫しても、あの図表でコミュニケーションを目指すのには、さぞかし気苦労があったことと思います。

一部の物好きな人は、書かれた文字、文章のことをエクリチュールと呼びます。何ともいえないもやもやとしたものを、この呼び方から、私は感じます。物好きなジャンルに触れる数が、少ないのかもしれません。

このもやもやがなくなっていくことを、大人になるとか、洗脳されるとか、呼ぶのかもしれません。

書籍『生物の世界』(今西錦司)には、次のようにあります。
変異ということそれ自身もまた主体の環境化であり、環境の主体化でなければならぬ。生きるということの一表現でなければならぬ。現状維持が死を意味するとき、生物はつねに何らかの意味でよりよく生きようとしているものであるということができる。
私も子供の頃は、返信用の封筒に「行」と書いてあるのをわざわざ取り消して「御中」と書き直す制度がまるで納得いかず、癇癪を起こしたことがありました。はじめから「御中」と印刷して渡せばよいのではありませんか。

自分の中でどうしても折り合いがつかず、疑問を持たなくなったら、大人になったのだと思うことにしました。

時は流れて、現在の私は、結局まだ納得がいっていません。大人になれませんでした。私の人生です。ライフです。
とはいえ、私もわりと物好きな方なので、エクリチュールは積極的に使っていきたいと思います。

ある程度のまとまりになった文章が好きです。情報をゆっくりと表現することにかけては、私の知るなかで最良の方法です。他の方法には、まとまった文章にはない早さがあります。時と場合による、といえばそれまでですが、早い表現は、私は苦手で、距離を置くようにしています。

厳密には、文章のうえに論理はありません。厳密な論理があるのは記号論理の表現のなかだけだと、私は考えます。このあたり、数式の展開は計算と呼ぶのに、記号論理式の展開は論理と呼ぶのは、いまひとつのような気もします。どちらも同じものだとおっしゃる方もあるかもしれません。年若いゲーデル青年です。
文章のうえに論理がないのは、自由なエクリチュールの宿命ですので、しかたのないことです。それでも、まとまった文章のうえでは、論理が流れていると少しでも感じられるところが好きです。

論理がないといいますか、自然な言語による文章と、記号論理の表現とでは、論理という言葉の指すものが違っているのかもしれません。

書籍『存在論的、郵便的』(東浩紀)に、次のようにあります。
私達は論理によってしか世界を思考できない。言い換えれば、世界と思考はともに論理に支えられている。とすれば必然的に、論理自体は世界=思考を超えることになる。
自然言語でも、記号論理でも、通底する論理は外から与えられるものです。閉じたエクリチュールの階層を飛び越えたところから、論理が叩きつけられます。

記号論理では、与えられた論理をもとに、静的に世界が表現されます。機械的であり、この意味で論理的です。

自然言語では、外から与えられた論理がエクリチュールを限定するのとまったく同時に、エクリチュールが論理を限定します。主体の環境化と、環境の主体化が、絶対矛盾的自己同一的に振る舞います。生命的なダイナミズムといっても構いません。ライフです。この意味でやはり論理的です。

ウィダーインゼリーのふたが固くて開けられません。

文章には文法があります。記号論理にはありませんし、他のどんな表現にもありません。開けられないことと、ふたが固いことを高度に関連付けて、微妙な陰影を含ませて表現することは、文法のあるエクリチュールの他には難しいことでしょう。

私の家には瓶入りのナンプラーがあります。やはりふたが固くて開けられません。私はナンプラーとか、パクチーの類がとても好きです。何というジャンルで呼べばよいのでしょうか。最近は、パクチーがあちこちで食べられるようになって、嬉しい限りです。

ナンプラーも好きで、家に瓶を買ってあります。残念ながら、チャーハンを食べるときくらいで、あまり使う機会がありません。卵かけご飯にも使えそうなのですが、私は卵かけご飯にはごま油をかけます。ナンプラーを使えるときは逃したくないものだと、常々思っています。ただ、ふたが固くて開きません。

そこへいくと、ウィダーインゼリーのふたは、固いというより、小さくてつかみづらいところがあります。ウィダーインゼリーは手軽に飲むことができるイメージですので、出鼻をくじかれた感じです。飲み口のことを考えると、単純にふたを大きくするわけにもいかないのが、難しいところです。

シャンプーやボディーソープの、詰め替えパックの口が開けられないことがあります。詰め替えパックの口は、固くて開けられないわけではなく、ひとえに、お風呂の中では手が濡れているためです。思い返してみると、昔は、今よりもっと開けにくいものでした。偉大な創意工夫と、改善があったのでしょう。手が濡れているという巨大な制約がありますので、詰め替えパックの口の開けやすさを設計することは、非常な困難に違いありません。

日常のあらゆる場面で、ふたが開かないことがあります。私の生活です。ライフです。

書籍『完全言語の探求』(ウンベルト・エーコ)には、次のようにあります。
これまでにも指摘されてきたように、図表文字の真の限界は、像はものの形態や機能を表現することはできても、行為、動詞の時制、副詞、前置詞を表現するのには困難があるという点にある。
図表文字と呼ばれるものと、まとまった文章とを対比してみます。図表文字は、エジプトの壁画に出てくる、絵のような文字のことをご想像いただければよいと思います。

まとまった文章によらずに情報を表現しようとすると、いくつかの困難にぶつかります。なんとなく、コミュニケーションに気苦労がある、くらいに思っていましたが、列挙されてみると、なるほどそうだという気がしてきます。
行為、動詞の時制、副詞、前置詞です。情報を表現するためには、文法が重大に不足しています。

文法を伴った、まとまって書かれた文章の形式がいちばんよいものだと、長らく考えてきました。

他方で、まとまったエクリチュールにも達成できない点があります。
『存在論的、郵便的』からです。
「何の違いがある? What's the difference?」という疑問文を例に挙げている。
「何の違いがある?」と紙に書かれている状況です。
与えられた文を文字通りに理解すれば、それは「違い」の内容についての質問になるし、修辞疑問として受け取れば、それは「違い」の存在を否定する文章になる。
当たり前のようですが、改めて言われると、確かにそうです。

素直な疑問文だと思えば、違いの内容を聞かれている状況です。高圧的な口調で読めば、「違いなんてないだろう」と迫る状況です。必ずしも高圧的でなくてもよいとは思いますが、修辞疑問文というのは、なぜだか高圧的に見えるものです。無意識にやってしまわないよう、気をつけたいところです。

話が逸れました。エジプトの壁画のような情報伝達では、話が逸れることもできません。ものの形態や機能を表現することしかできないためです。話が逸れていくことができるのも、自由なエクリチュールの機能です。

話が逸れました。同書は次のように続きます。
そのどちらの読みが正当かは、原理的に判断できない。
素直な質問として読むか、高圧的な修辞疑問文として読むか、原理的に、いずれかの正当さを決定できません。エクリチュールの内側に通底する論理には、いずれの読解が正当か、表現されていないのです。論理とは、エクリチュールの世界を超えたところから叩きつけられるものです。
あらゆる記号にはエクリチュールとしての面がある。記号が記号であるかぎり、何らかのかたちで「書かれる」、つまり記録されることが必要だからだ。そしてエクリチュールは上述のように、たえずあるコンテクストから切断され漂流し、別のコンテクストへと接木されている。その結果あらゆる記号は原理的に、つねに同時に複数の言語(ラング)、複数のコンテクスト、複数の読解レヴェルに属しているだろう。
エクリチュールは常に複数の読解レベルに属していることにより、翻訳が不可能であるといわれます。

書籍『アウトライン・プロセッシングLIFE』(Tak.)は、次のようなスローガンを掲げています。
生活(ライフ)は、人生(ライフ)に規定されます。そして人生(ライフ)は、生活(ライフ)の積み重ねに影響を受け、変化していきます。
ライフという言葉が複数の読解レベルに属していることで、翻訳を拒んでいます。原理的には、あらゆるエクリチュールは翻訳を拒みますが、ここでのライフはそれが顕著です。

今度は、『生物の世界』を見ます。
英語ではライフという言葉一つであるが、日本語でいう場合には生命と生活といえば可成りな相違を感ずるからである。
ライフという言葉が、立て続けに翻訳不可能になります。

文法を伴ったエクリチュールには、生命的なダイナミズムがあります。ライフです。外側から叩きつけられる論理に限定されつつ、外側にある論理を限定します。主体の環境化であり、環境の主体化です。

生物は常に、何らかの意味でよりよく生きようとしているものです。
私などは、納得がいかなくても癇癪を起こさないようになりました。


終わりに


近年では、ウィダーインゼリーは飲まないことにしています。ふたが開かないからです。
何の違いがあるでしょうか。

2018年7月19日木曜日

ポメラを十年使って、僕が考えたこと

あたかも私の《無意識》が――私は便宜上それをそう呼ぶのですが――ある全く別の場所につながれており、私は非常に多くの中継を通ってあるエクリチュールの尖端というか、あるタイプライターの尖端に到達する、といったそんな観を呈するのです。こんなふうに言うのも、私はたいていタイプライターで書いているからですが……。いま私の念頭に浮かんでいるのは、ある種の記憶機械なのです。一本の針先なり、万年筆なり、ペンなりが、たいへん遠いところからそれにやってきたいろいろな命令から出発して、人の手なしで書くといったそういう種類の機械なのですよ……。
※『他者の言語』(ジャック・デリダ)より(『存在論的、郵便的』(東浩紀)に掲載)
文章を書くことに、長く、キングジム社のポメラを使ってきました。ポメラを使っている中で、できあがってくる文章があります。ポメラの方が、私より、少しだけ偉いのです。

2018年6月8日に、新しいポメラDM30が発売されました。

物理的な様相としては、文句のつけどころがありません。少なくとも、これまでに二つ折りのポメラを使ったことがある方は、ぜひ、触れていただきたいものです。どうして、はじめから三つ折りにしなかったのだろう、と思います。

DM30は電子ペーパのディスプレイになりました。

人類はこれまで、電子ペーパのディスプレイで文章を書いたことが、ほとんどありません。電子ペーパのディスプレイで文章を書くのが、どういうことか、意味のある次元で理解できている人はいません。私もその一人です。ポメラの開発者さんでも、そうでしょう。まとまった文章を、数年にわたって書き続けて、はじめてわかることがあるはずです。

意味のある理解だとは思いませんが、少しだけ文章を書いて、気づいたことがあります。

パワーオフ画面の設定で「編集画面」を選択できます。ポメラの電源をオフにしたときの、画面の状況を選択する設定値です。初期設定は「画面オフ」です。電源をオフにすると、画面は真っ白になります。ふつうの状況です。

「編集画面」を選択すると、電源をオフにしても、直前まで文章を書いていた画面がそのまま表示され続けます。電子ペーパのディスプレイは、同じ画面を表示し続けることに、なるほどエネルギーを使いません。

ポータブルな機械には、常にバッテリーの問題があります。文章を書く手を止めて、続きを考えているとき、何もしなくてもバッテリーを消費していきます。さらには、自動スリープのような機能で、ディスプレイの表示が見えなくなってしまいます。

書いてきた文章をながめて、続きを考えていたのに、困った事態でした。文章を書くための道具には、独特の要請があるものです。

電源がオフになったのに、自分が書いた文章をながめて、考え続けることができるのは、新鮮な気分です。

思えば、手書きのときには、まったく当たり前のことです。

 *

電子ペーパのディスプレイは、画面を切り替えたときに、残像のようなものが残ります。文章を続けて書いていると、簡単に言えば、画面が汚れてくるということです。自分が長い時間文章を書いてきたのだと突きつけてくるデジタルツールは、不思議なものがあります。

長く使ってきたノートのようでもあります。
なるほど、手書きのときには、まったく当たり前のことです。

 *

電子ペーパのディスプレイは、通常のディスプレイと異なり、タイプしてから、画面が反映するまでにラグがあります。タイプして、表示が遅れて追いかけてくるような感じです。素直に考えると、デメリットです。

それでいて、文章を書くための道具には、独特の要請があるものです。

『サウンド&レコーディング・マガジン 2007年12月号』(リットー・ミュージック)で、音楽家のレイ・ハラカミさんが、インタビューに応えています。

エフェクターのディレイを使うことについて、語ったものです。
遅れて聞こえるって言うのは何かいいですよね。ダブなんかのディレイで音像がぼやけていくのは、記憶がぼやけていく感じで好きなんです。
ディレイは、入力した音を遅らせて鳴らすためのエフェクターです。記憶がぼやけていく感じとは、心に残る表現です。

電子ペーパのディスプレイで文章を書くことにも、同じ感じがあります。

タイプしてから、画面に文字が反映されるまでに時間があると、強制的に、自分の書いた文章を読まされることになります。書き手としての記憶がぼやけて、書き手としての私と、読み手としての私が、少しだけ分離するようです。

機械が、文章を打ち出してくるような感じがあります。強制的にそれを読まされることで、目の前にある文章が、確かに自分が書いたものだと、再認識させられるようにも思います。自分で書いた文章くらい、流れていくことに抗うのも、悪くはありません。

機械の方が、私より、少しだけ偉いということです。

ハラカミさんの言葉があります。『サウンド&レコーディング・マガジン 2005年7月号』からです。
(インタビュアー) 実際の曲作りはどのように行っているのでしょうか?
(ハラカミ) 基本的にはやっぱり手を動かしていますね。作りながらでしかできない。でも、こういうのが作りたいなって頭の中に浮かんできても、それをうまく置き換えられたことはない。EZ Visionという設計図を書く機械を使って、SC-88Proでどういう音で鳴らすかということしかできない……限定されたものの中から作品を導き出す快楽性を追い求めているんです。
作りながらでしか、作ることができません。空想したものを、現実にうまく置き換えることはできないのです。人間の空想より、機械の方が、少し偉いということでしょう。

この言葉に勇気づけられるのは、私だけではないはずです。書きながらでしか考えられないことは、確かにあります。先に思い浮かんだ枠に従って無理に書いていくと、空欄を埋めたような貧弱な文章になるのです。
(インタビュアー) 頭の中に浮かんだものを置き換える精度は、経験を積むことで高まっていったりはしないのですか?
(ハラカミ) 調子がいいときはそうです。でもボーカリストが自分の声からは逃げられない、ピアノ弾きが10本の指からは逃げられないように、限界はあります。ピアニストがもう1本腕が欲しいと思っても仕方ないように、機械そのものを否定しちゃったら意味がない。
ポメラで文章を書いている以上、ポメラを否定しては意味がありません。ポメラの方が、私より偉いのです。機械を使っている中で、できあがってくるものがあります。

思い浮かべた言葉があります。書籍『竹内政明の「編集手帳」傑作選』(竹内政明)から知りました。
米大リーグで通算4256安打の大記録をもつピート・ローズ選手が野球賭博の疑いで永久追放処分を受けたとき、コミッショナーのジアマッティ氏は語った。「野球よりも大きな人間は一人もいない」と。
謙虚さを思い出します。

例えば、私はプログラマです。書かれたプログラムよりも立派で、大きなプログラマは、一人もいないのだろうなと思いました。

そして、書かれた文章よりも大きな物書きは、一人もいないのでしょう。
文章の方が、書き手より、少しだけ偉いのです。

手書きで文章を書くときには、タイプするときのように、流れるように文字が現れたりはしません。ここの線は二本だったか、にんべんでよかったか、といったことを考えながら、文字が出てきます。

書くことを思ってから、少し遅れて紙に反映されます。
思えば、手書きのときには、まったく当たり前のことです。


終わりに


『存在論的、郵便的』に次のようにあります。
そのため私たちはそこでは、ひとつの論文のなかにいかなる指示もなしに造語や新概念が登場し、かつその含意については他の論文やあれこれの哲学的テクストを参照しないと知りようもないといった事態に頻繁に出会うこととなるだろう。
こんな風に言うのも、私はたいていポメラで書いているからですが……。

2018年5月6日日曜日

我を忘れた道なき写真屋

久保竣公に似ていると言われたことがあります。
私の、若い時分のことです。

久保竣公にさほど悪い印象はありませんので、満更でもないと思っています。有名人に似ていると言われることなど、頻繁にあることではありません。

彼、久保竣公は、容貌は知られていないはずです。小説の登場人物だからです。文章の描写がもたらすイメージが、ひょっとすると私に似ているかもしれないものの、主たる要因は、私が夏でも手袋をしていることです。

『魍魎の匣(文庫版)』(京極夏彦)からです。
ただ不思議なことに、この陽気に久保は白い手袋を嵌めていた。勿論防寒用のものではなく写真屋が嵌めているような薄手のものではあったが、異様と云えば異様だった。
久保が異様な手袋を嵌めていたことには、とある事情があります。私には、深い事情はありません。異様だとも思っていませんでした。

ひとえに、私が、外の日差しや風に当たるのが、好きでないことによります。
先んじて久保の例を挙げてしまったため、やけに異様に感じられたかもしれません。日差しを避けるための、暑い時期でも着用できる薄手の手袋というのは、普通に売っているものです。どうということはありません。

薄手のものに限らず、私は手袋がとても好きです。新しい手袋を買うと、うきうきとします。手袋を嵌めていると、心が落ち着きます。
ちょっとした道具によって、外の日差しと風に当たるのが苦手な私が、楽しく外出できます。道具というものの素晴らしさを感じます。

私にとって、ちょっとした道具を身の回りに集めることの、原体験になります。道具を使うことに没頭した後に、なぜだか自分のことがよくわかってくるのです。
手のひらサイズで、無限の可能性が広がっていない、少ない機能の道具が、私は好きです。シンプルさは指向しないほうです。小さな道具が、身の回りに溢れているのが好きです。

私にあまり高尚な趣味がないせいか、各々の道具は、単体で立派なものではありません。身の回りに、気に入った道具がみっしりと詰まっている様子には、名状しがたい効果があります。

書籍『書斎の宇宙』(高橋輝次)に、北川桃雄さんの書いたエッセイ「机上のもの」が掲載されています。
自分の意思によらずして、縁あってこの机上に身をまかせている小具類が、必しも私の趣味にあっているわけでもない。しかし、それらは、どの人間の生活形態そのものがそうであるように、使用という共通の目的のため、永年の間におのずから統一されて、一つのささやかな雰囲気を形作っている。
使用という目的のために、一つのささやかな雰囲気を形作っています。とてもよい言葉です。

同じ道具でも、個人によって向き不向きがあって、試行錯誤して、自分に合うものを見つけるのが大事だ、と耳にすることがあります。実感としては、なかなか伝達しにくい話です。試行のうえで、この道具は自分に向いている、向いていないと、自分なりに評価できたという感慨は、どれほどあるものでしょうか。言葉と意味ばかり先行しがちな時代ですので、難しいものがあります。

私も例外ではありませんでした。試してみて、自分に合う道具を使うことが大事だという、言葉と意味と論理は、なるほど理解しています。実感として、確かにそうだと思った経験は、幾度もあるものではありません。

失敗を、自覚していく道のりは、道草のようでも、言葉と意味に屈しないための道です。

最近だと、ノートの類いがそうでした。同じノートを長く使い、また、並行してさまざまなノートを試用してきました。本当に長い期間をかけて、少しずつわかってきたことがあります。ある瞬間に、突然にわかった、というような、ドラマティックなエピソードはありません。

ノートは、書く面を平らに開いておくことのできる形式がよいです。一枚の紙を、バインダに挟むのでも構いません。紙は一枚ずつになっているか、一枚ごとに切り離せるのがよいです。A5サイズで、横長で、無地の紙がよいです。現在は、SAKAEテクニカルペーパー社の「トモエリバーFP ルーズシート A5」を使っています。
それから、名刺サイズの情報カードを併用します。無地で、ライフ社のものがよいです。

少しずつ、自分に合う道具を見つけていった結果であり、見つけている過程です。自分に合う道具を見つけると、何かが充実したような気がして、満足感があります。隙間が埋まっていくのは心地よいものです。

普通の形式のノートは、私には向かないようでした。常に開いておけないところと、一枚紙のように書けないところです。しばらく試してみて、うまくいかなかったという意味です。ああ、今、うまくいっていないぞ、と感じたことが、確かにあったわけです。筆舌に尽くしがたい感傷です。

自分ではないもの、道具を使うことに没頭していると、自分のことがわかってくることがあります。

書籍『道なき未知』(森博嗣)からです。
そうではなく、自分を見つけたかったら、なんでも良いから自分以外のものに没頭することである。天体を観測したり、絵を描いたり、そんな道草をすれば良い。ようするに、自分を見つけるには、「我を忘れる」ことが大事なのだ。我を忘れた時間のあと、ほっとするひとときに、なんとなく新しい自分になっていることを発見するだろう。
ドラマティックに新しい自分が生成されるわけでないところが、私の実感とも合っています。

自分の納得いく道具が、渾然一体となって、周囲にみっしりと詰まっている様子が好きです。たくさんでなくても、みっしりと寄せ集まっている様子が好きです。

『魍魎の匣(文庫版)』(京極夏彦)に、次のようにあります。久保竣公が執筆した、小説のパートです。一部、旧仮名遣いが再現できませんでした。
だから善く勉強をした。ものを覚えると、其の分脳髄が充實したやうな氣がして満足感があつた。隙間が埋まつて行くのは心地良いものだ。
私は久保竣公に似ています。久保竣公にさほど悪い印象はありませんので、満更でもないことです。


終わりに


写真屋さんというのは、白い手袋を着けているものなのでしょうか。

2018年3月11日日曜日

優しい便り

現在というものには、過去と未来のすべてが含まれています。過去と未来のすべてが表出したものが、現在です。現在が動的であるのは、このためです。

時間が流れるということです。

複雑で、深遠な時間の流れを思うとき、幸いにも、人は謙虚になることができます。個人の自意識では太刀打ちできないと、圧倒されるためでしょうか。素晴らしいことです。

自分ではない、圧倒的な何かに、思いを馳せることがあります。
優しくありたいという、希望のことかもしれません。星屑に願った、便りのことかもしれません。

すべての時間が表出した現在の、深遠さを思い、人は優しくなります。綺麗な時が、すべて閉じ込めてあります。時間も、現在も、動的で、複雑なものです。

fhánaの楽曲「星屑のインターリュード」に、次のような一節があります。
initialize その扉を
開ける時が来るのだろう
綺麗な時を閉じ込めて
湖に沈めたの
だけど私平気だよと
星の便りに綴る
優しい、星の便りです。
過去も、未来も、ここにあるから、平気です。