2018年5月6日日曜日

我を忘れた道なき写真屋

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久保竣公に似ていると言われたことがあります。
私の、若い時分のことです。

久保竣公にさほど悪い印象はありませんので、満更でもないと思っています。有名人に似ていると言われることなど、頻繁にあることではありません。

彼、久保竣公は、容貌は知られていないはずです。小説の登場人物だからです。文章の描写がもたらすイメージが、ひょっとすると私に似ているかもしれないものの、主たる要因は、私が夏でも手袋をしていることです。

『魍魎の匣(文庫版)』(京極夏彦)からです。
ただ不思議なことに、この陽気に久保は白い手袋を嵌めていた。勿論防寒用のものではなく写真屋が嵌めているような薄手のものではあったが、異様と云えば異様だった。
久保が異様な手袋を嵌めていたことには、とある事情があります。私には、深い事情はありません。異様だとも思っていませんでした。

ひとえに、私が、外の日差しや風に当たるのが、好きでないことによります。
先んじて久保の例を挙げてしまったため、やけに異様に感じられたかもしれません。日差しを避けるための、暑い時期でも着用できる薄手の手袋というのは、普通に売っているものです。どうということはありません。

薄手のものに限らず、私は手袋がとても好きです。新しい手袋を買うと、うきうきとします。手袋を嵌めていると、心が落ち着きます。
ちょっとした道具によって、外の日差しと風に当たるのが苦手な私が、楽しく外出できます。道具というものの素晴らしさを感じます。

私にとって、ちょっとした道具を身の回りに集めることの、原体験になります。道具を使うことに没頭した後に、なぜだか自分のことがよくわかってくるのです。
手のひらサイズで、無限の可能性が広がっていない、少ない機能の道具が、私は好きです。シンプルさは指向しないほうです。小さな道具が、身の回りに溢れているのが好きです。

私にあまり高尚な趣味がないせいか、各々の道具は、単体で立派なものではありません。身の回りに、気に入った道具がみっしりと詰まっている様子には、名状しがたい効果があります。

書籍『書斎の宇宙』(高橋輝次)に、北川桃雄さんの書いたエッセイ「机上のもの」が掲載されています。
自分の意思によらずして、縁あってこの机上に身をまかせている小具類が、必しも私の趣味にあっているわけでもない。しかし、それらは、どの人間の生活形態そのものがそうであるように、使用という共通の目的のため、永年の間におのずから統一されて、一つのささやかな雰囲気を形作っている。
使用という目的のために、一つのささやかな雰囲気を形作っています。とてもよい言葉です。

同じ道具でも、個人によって向き不向きがあって、試行錯誤して、自分に合うものを見つけるのが大事だ、と耳にすることがあります。実感としては、なかなか伝達しにくい話です。試行のうえで、この道具は自分に向いている、向いていないと、自分なりに評価できたという感慨は、どれほどあるものでしょうか。言葉と意味ばかり先行しがちな時代ですので、難しいものがあります。

私も例外ではありませんでした。試してみて、自分に合う道具を使うことが大事だという、言葉と意味と論理は、なるほど理解しています。実感として、確かにそうだと思った経験は、幾度もあるものではありません。

失敗を、自覚していく道のりは、道草のようでも、言葉と意味に屈しないための道です。

最近だと、ノートの類いがそうでした。同じノートを長く使い、また、並行してさまざまなノートを試用してきました。本当に長い期間をかけて、少しずつわかってきたことがあります。ある瞬間に、突然にわかった、というような、ドラマティックなエピソードはありません。

ノートは、書く面を平らに開いておくことのできる形式がよいです。一枚の紙を、バインダに挟むのでも構いません。紙は一枚ずつになっているか、一枚ごとに切り離せるのがよいです。A5サイズで、横長で、無地の紙がよいです。現在は、SAKAEテクニカルペーパー社の「トモエリバーFP ルーズシート A5」を使っています。
それから、名刺サイズの情報カードを併用します。無地で、ライフ社のものがよいです。

少しずつ、自分に合う道具を見つけていった結果であり、見つけている過程です。自分に合う道具を見つけると、何かが充実したような気がして、満足感があります。隙間が埋まっていくのは心地よいものです。

普通の形式のノートは、私には向かないようでした。常に開いておけないところと、一枚紙のように書けないところです。しばらく試してみて、うまくいかなかったという意味です。ああ、今、うまくいっていないぞ、と感じたことが、確かにあったわけです。筆舌に尽くしがたい感傷です。

自分ではないもの、道具を使うことに没頭していると、自分のことがわかってくることがあります。

書籍『道なき未知』(森博嗣)からです。
そうではなく、自分を見つけたかったら、なんでも良いから自分以外のものに没頭することである。天体を観測したり、絵を描いたり、そんな道草をすれば良い。ようするに、自分を見つけるには、「我を忘れる」ことが大事なのだ。我を忘れた時間のあと、ほっとするひとときに、なんとなく新しい自分になっていることを発見するだろう。
ドラマティックに新しい自分が生成されるわけでないところが、私の実感とも合っています。

自分の納得いく道具が、渾然一体となって、周囲にみっしりと詰まっている様子が好きです。たくさんでなくても、みっしりと寄せ集まっている様子が好きです。

『魍魎の匣(文庫版)』(京極夏彦)に、次のようにあります。久保竣公が執筆した、小説のパートです。一部、旧仮名遣いが再現できませんでした。
だから善く勉強をした。ものを覚えると、其の分脳髄が充實したやうな氣がして満足感があつた。隙間が埋まつて行くのは心地良いものだ。
私は久保竣公に似ています。久保竣公にさほど悪い印象はありませんので、満更でもないことです。


終わりに


写真屋さんというのは、白い手袋を着けているものなのでしょうか。