2020年10月31日土曜日

別の語へ波及する閃光

カセットテープにはA面とB面があります。長らく忘れていました。

書籍『青い花』(ノヴァーリス 著, 青山 隆夫 訳)に、次のようにあります。
ところでこれは断言してもいいほどだが、どの文芸においても、混沌が整然とした秩序のヴェールを通してほのかに光を放っていなければならぬということだ。着想の豊かさも、さりげなく配置されてはじめて、それと知られもし、ゆかしいものになるのだ。それに対してただの均整を求めるなら、数字を並べて作られた無味乾燥な図形にもあるではないか。
すぐれた詩がわれらのすぐ傍にあり、またありふれた対象が絶好の素材となることもまれではない。詩人にとって、詩は限定された道具の制約を受けているがゆえに、芸術となるのだ。
アンダグラウンドな音楽アーティストが、カセットテープで新譜をリリースするのを目にすることが多くなりました。ここ1~2年くらいのことだと、私は感じています。カセットテープで、限定30本ほどしか販売しなくて、売り切ったら廃盤の扱いになります。アーティストの事情は存じていませんが、リスナとしては、カセットテープでリリースするというのは面白いので、ぜひ応援したいと思っています。

そのためにも、私は先日、ポータブルのカセットプレイヤを購入しました。懐かしいものです。当時は当たり前でしたが、有線のイヤフォンしか差すことができません。最近は Bluetooth のイヤフォン、ヘッドフォンばかりだったので、カセットプレイヤで使うための有線イヤフォンも購入しました。どちらも2000円くらいのものです。

よいイヤフォンの説明には、なかなか難しいところがあります。イヤフォンのレビューには、高域が迫ってくる感じとか、低域の臨場感だとか書かれることでしょう。イヤフォンというのはもっと、日常を共にする、生活に密着した道具という一面があります。オーバ・エンジニアリングでなく、大げさでない音質で、ヘビー・デューティな、生活にがしがしと取り入れたくなるイヤフォンが、カセットプレイヤには合っています。

ちなみに、イヤフォンやヘッドフォンに対してのレビューではなく、人に視線を向けた、あなたの使っているヘッドフォンについて教えてください、のような企画だと、日常を共にする道具としてのコメントを読むことができます。「コードだけを簡単に取り外せるので、断線しても交換がしやすい」とか、「頭の形にちょうど合っていて外れにくい」とか、「形状が作業デスクのここに引っ掛けやすい」とか、「尊敬する先輩にもらった」とかです。私には、こういったレビューのほうが読んでいて楽しく、参考にもなります。

しばらくSpotify一辺倒だった私です。カセットで音楽を聴くというのもなかなかよいものです。あるアルバムを聴き終えて、別のアルバムを聴くためには、プレイヤの蓋を開けて、テープを取り替えないといけません。半分聴き終えたら止まってしまうので、B面を再生し直さないとなりません。

カセットで音楽を聴くこと、それから、カセットプレイヤというのもよいものです。PCやスマートフォンを、何よりネット接続を必要としません。カセットで音楽を聴くための道具です。そう、確かに道具だという感じがします。

書籍『記号と事件―1972‐1990年の対話』(ジル ドゥルーズ 著, 宮林 寛 訳)にありました。
主節と従属節のあいだには、文が完全な直線に見えるときですら、いやそう見えるときこそ、緊張と、ある種のジグザグ運動がなければならないのです。語と語がたがいに遠く離れていても、ある語から別の語へと波及する閃光を語そのものが産み出すとき、文体はあらわれるのです。
雑誌『サウンド&レコーディング・マガジン 2020年11月号』(リットー・ミュージック)に、興味深い記事が載っていました。TASCAMのハードウェア・エンコーダVS-R264です。
今回行われた配信ライブの真骨頂は、YouTube配信のセッティングだ。映像はカメラを3台使用したマルチアングル。音声はニコニコ動画と同じく、Model 12 にサミングされた2本のマイクの音声を使用。Model 12 からアナログでスイッチャーSONY MCX-500へ音声を送り、そこからHDMI端子でエンコーダー/デコーダーのVS-R264へ伝送。コンピューターレスで配信された。
今の音楽業界でライブ配信といえば大きなトピックです。TASCAM VS-R264に映像・音声をインプットすることで、PCやスマートフォンなしでライブ配信が可能であるようです。VS-R264を、ライブ配信の専用端末として使うことができます。

同記事によると、TASCAM社は、今のようにライブ配信の気運が高まるずっと以前から、ライブ配信のための機材を研究してきていたそうです。TASCAM社の製品ラインアップからすれば当然のようでもあり、しかし、そういうすごい人が世の中にいるのです。

それにしても、この、ネットワークに自身で接続してライブ配信をするための端末、という発想には感動しました。ライブ配信の専用端末という存在そのものに、なんだかぐっとくるような感じがあります。PCやスマートフォンを必要としないところがとてもよいです。

映像と音楽を、ライブ配信することしかできない道具です。そう、確かに道具だという感じがします。

書籍『フランシス・ベイコン・インタヴュー』(デイヴィッド・シルヴェスター 著, 小林 等 訳)に、次のようにありました。
結局、私は何かを語ろうとしているのではなくて、何かを行おうとしているのです。
先日、Google Nest スピーカを購入しました。"OK, Google" と話しかけると応えてくれます。

"OK, Google" はさておき、Spotifyユーザには見過ごせない機能があります。多くの場合で、SpotifyはPCのWebブラウザやスマートフォンのアプリを使います。そのPCやスマートフォンがネットに接続して、音楽を再生します。当たり前のことではあります。

Google Nest では、スマートフォンをコントローラとして使い、Google Nest 自身がネット接続して、Google Nest 自身のスピーカで音楽を鳴らすことができます。スマートフォンはあくまで、選曲や再生のコントロールのみです。スマートフォンのネット通信のパワーを使うことなく、音楽をストリーミングすることができるわけです。

あたかも、Google Nest が Spotify の専用端末になったように使うことができます。すごく、ぐっとくる感じがあります。Spotify をストリーミングするためだけの道具のようになるからです。そう、確かに道具だという感じがします。

ひとつのことしかできない道具にぐっとくる感じがあるというのは、不思議なものです。PCやスマートフォンのように、何でもできる端末にはないものがあります。ひとつのことしかできない、それも使い慣れた道具を、身のまわりに置いておくのは、よいものです。孤独があるのかもしれません。孤独に耐えることであり、孤独であろうとすることでもあります。自分なりになんとかやっていけるという、納得感のようなものです。

書籍『数学は最善世界の夢を見るか? ――最小作用の原理から最適化理論へ』(イーヴァル・エクランド 著, 南條 郁子 訳)に、次のようにありました。
ガリレオやライプニッツはこの世界が神によって創造されたと信じていた。このことを理解せずに彼らの思想を理解することはできない。
では、私が信じているのは何でしょうか。
混沌が、整然とした秩序のヴェールを通して、閃光を放っていなければなりません。


終わりに


日常は限定された道具の制約を受けているがゆえに、何かよいものになるのでしょう。
芸術ではなくて、エンジニアリングに近いものだと感じています。A面とB面のようなものです。