私たちは、何かの意図のもとで過度に調整された世界に対して、薄気味悪さを覚えます。同意できる人もあるはずです。
以前、小説の『一九八四年』(ジョージ・オーウェル)を読みました。調整された世界のお話でした。私は知りませんでしたが、多くの人に読まれている本だとのことです。読んだことのある方には、私が指示している雰囲気が伝わるかと思います。
同書に限りません。箱庭のような、不自然に理想化された環境を描いた物語を、いくつか思いつくことができます。洋の東西を問わず、形を変えて表現されてきたテーマでしょう。
過度な調整の世界を、私たちは薄気味悪いと、奇妙だと、感じます。大雑把に言って、ネガティブな感情を覚えるわけです。
人々のそういった感情が何に由来しているのか、また、人々にとってどれほど普遍の感情であるのか、いまのところ、私には意見がありません。
ここでは、多くの人はそのような感情を覚えるようである、という理解だけ共有させていただきます。もちろん、話を先に進めるためです。
書籍『パラレルな知性』(鷲田清一)に、気になる一節がありました。
空気を読むということについて述べられている中の文章です。引用いたします。
空気なんて読まなくていいのだ、と。それよりもむしろ、じぶんが「空気」と思っているものがいかに狭隘なものかを知ることのほうが大事だ、と。空気を読もうとする人たちに対して、空気なんて読まなくていい、と助言を送っています。じぶんが「空気」と思っているものは、狭隘であるといいます。
私の目を引いたのは、後半の部分です。
自分が空気だと感じているものが狭隘だと気づくこととは、すなわち、自分が不自然に調整された、限定された世界にいたと気づくことでしょう。ほんとうはもっと複雑であるのに、人の手で単純にされた空間を、世界だと思いこんでいたわけです。
気づいたときにはきっと、薄気味悪さを感じるのです。
この薄気味悪さには、私も思い当たる節があります。ずっと昔のことです。
放物線のグラフです。
放物線のグラフは、一般に、このようなものです。
ここでは、a は正の数です。
学校の数学などで、放物線を取り扱います。a の値を様々に変えたりして、その性質を調べていくのが目標です。
放物線についての学習は、つつがなく終了しました。
放物線を学んでから少しだけ歳月を経たとき、二次関数と呼ばれるものに出会いました。
二次関数のグラフは、このようなものです。
ここでも、a は正の数です。b、c にも条件がつきますが、とりあえず実数ということにさせてください。
このグラフを初めて目にしたときの、私の衝撃といったらありませんでした。頭をがつんと殴られたようでした。
だって、放物線が動いているのです。なんということでしょうか。
今までの放物線では、山になっているところはいつも 0 にありました。
(x, y) = (0, 0) でした。
それが、どこか別のところに行ってしまったのです。
当時の私は悟りました。
それまで知っていた放物線は、一般の二次関数が、偶然にも、頂点が (0, 0) のところに動いた、特殊なものだったのです。
奇跡的に、動いた先が原点であるわけです。
私は、頂点が原点にある放物線がすべてだと思っていました。他には出会ったことがありませんでしたので、無理からぬことです。
それは、人の手によって、不自然に単純化して見せられた世界でした。過度に調整された、理想的な世界でした。
これが、私が感じた衝撃です。
おそらく、年若いうちは一般の二次関数は難しいと判断した誰かが、私に不自然で単純な世界を示していたわけです。
言いしれぬ動揺がありました。
ですが、思えば、数学を勉強することは、こういった手続きをひたすらに進めていくことです。ほとんど、それがすべてです。ある事柄を学んでから先に進んでみると、それまでが、特殊で単純であったことに気づくのです。
わりと、数学に独自のことではないかと思います。
私は、このようなところにも、数学を勉強する意味のようなものを見つけます。
先に、空気というものが狭隘であると知ることの話をご紹介しました。もし、その主張がどこまでも正しいのであれば、数学を学ぶことは、すばらしい訓練になります。
外には大きな海があることに気づき、過去の自分に思いを馳せることができます。
少なくとも、過度に調整された薄気味悪い世界が、フィクションに限らないことを体験できます。数学を勉強したら、小説をもっと楽しめるようになるかもしれません。悪くないことでしょう。
終わりに
数学まわりのところで、かなり不正確な言葉を使ってしまっています。ご注意ください。
放物線のグラフを手書きしてみました。くねくねとして、あまりきれいでないものになってしまいました。
理想とは程遠い放物線です。
掲載した二次関数のグラフでは、念のため、虚数解が出ないようにしました。私の性格によるもので、意味はありません。
同じグラフから、c も正の数であることはすぐにわかります。ただ、そこまで言うなら b の素性も明らかにした方が良いような気がしてしまいました。話が長くなりそうでしたので、c も実数というにとどめました。
途中、放物線の頂点を指して「山になっているところ」と言いました。この表現には苦労しました。
はじめ「とがっているところ」と書いたのですが、それだと、微分不可能になるような気がしてしまったのです。
ずいぶんと、細かいところを過度に調整したエントリだったようです。