2013年12月1日日曜日

太陽を回ったのは

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太陽の周りを走る惑星のように、くるくると走り回る自由は、いつだってあるはずです。

LiSAさんの楽曲「traumerei」に、次のような一節があります。
本当の自由の意味を知った
ひとつになってく身体と心
自由と、身体と、心とが現れてきています。いずれも、興味のある話です。

自由の意味を知るのは、心のはたらきでしょう。もう少し言えば、心が活動するから、自由が存在するわけです。

書籍『単純な脳、複雑な「私」』(池谷裕二)には、自由や心について、目を引く記述が多くあります。
次のようなものです。
「自由は、行動よりも前に存在するのではなく、行動の結果もたらされるもの」ということだ。
自由は、後から感じるものだといいます。もう少し説明が続きます。
普通の感覚だと、自由意志は、「行動する内容を自由に決められる」という感じで、あくまでも「行動の前に感じるもの」だと思いがちだけど、本当は逆で、自分の取った行動を見て、その行動が思い通りだったら、遡って自由意志を感じるんだね。
感じる心が、自由を作り上げるものだとのことです。

うなずけない人もあるかもしれません。引用した文中でも「普通の感覚だと」と断ってあります。
心が活動しなくても、自由はいつもどこかにありそうな気がします。

自由なるものが厳然とあって、それは、自分自身で自分の存在を証明できるということです。

書籍『世界はなぜ「ある」のか?』(ジム・ホルト)で、アリストテレスが「説明が有限回の段階で終わるもの」と語ったことについて紹介しています。

状況は次のとおりです。
A1が真なのはA2ゆえであり、A2が真なのはA3ゆえであり、と続いて、最終の真実Xに至る。では、Xはいったいどんな真実だろう?
説明の連鎖の果てに、説明を要さない真実に至るといいます。
可能性はふたつあって、ひとつめは、アリストテレスもあまり認められない様子です。
第一の可能性は、Xは是非もない事実で、それ自体のどんな説明もないというものだ。しかし、X自身を説明する裏づけがなければ、Xはほかの真実に対する裏づけをとても与えられないだろうと、アリストテレスは述べている。
私も、いまひとつ納得がいきません。アリストテレスと同じ意見です。

ふたつめの可能性は、アリストテレスが満足しているものだそうです。
次のとおりです。
第二の可能性は、Xが論理的に必然の真実であり、それ以外ではありえないというものだ。そして、アリストテレスにとっては、これが説明の連鎖を終わらせる方法として唯一、満足できるものだった。
本エントリの話題に合わせれば、自由なるものを、何か論理的に必然の真実Xによって説明できるということです。自由がXそのものでも構わないでしょう。

ここまで、二つ、採りえる立場が現れました。自由は人の心の作用によって構築されるものであるか、それ自身で存在できるものなのか、ということです。

短絡的には、選択肢が二つあって、さてどうしようか、といった話になるでしょうか。

短絡的でない方針を採用することにします。自由が、人の心ではない何かから生成されるという考え方があるためです。しかも、この中では、最もありそうな選択肢になります。

ありそうとは、もっともらしく感じるとか、可能性がどうとかの話ではありません。集合の大きさのことです。
人の心の集合は、そうでないものの集合よりも、おそらく小さいはずなのです。

人の心は、(一人の人が持つ心の数 × 人の数) 程度しかないはずです。人の数は定数ですので、全体で n のオーダです。

そうでないものの要素数はどうでしょう。仮に、それらをすべて日本語で記述できるとします。
すると、 "あ" から始まって "ん" まで行き、 "ああ"、 "あい"、 … と続く文字列を数えればよいわけです。

有理数を数え上げるときと同じ問題に帰着しますので、アレフゼロの無限大になります。

要素数が有限のものと無限のものを比べることになってしまいました。
やや不審ではあるものの、人の心以外の何かが自由を作っているとする方が、ありそうなのです。

さて、ここまで、自由という概念の周辺をくるくると走り回ってみました。

概念については、書籍『言語学の教室』(野矢茂樹、西村義樹)で、良い表現に出会いました。引用いたします。
テイラー(John R.Taylor)なんかは、「概念とは、要するに、カテゴリー化の原理のことだ」と言っていて、ぼくもそれがいいんじゃないかと思います。
自由という概念とは、これは自由である、これは自由でない、と様々な事柄のカテゴリを定めるための方針であるわけです。

私は、何かを描写する手法として、周辺をくるくると走ることはわりと良いものかもしれないと思っています。

こういったときには、とかく、自由とはいかなるものかについて、論理的に、具体的に説明する手法が採られます。

よく機能することがほとんどです。
他方で、気をつけていかないと、言葉の言い換えに終始してしまうこともあります。「概念とは、カテゴリー化の原理のこと」もそうでしょうか。
私にとってはうまく説明してくれた良い表現になりましたが、言葉の言い換えに過ぎないと言われれば、そうかもしれません。

説明することと言葉を言い換えることとは、分かちがたいものです。その中で、機能するように説明を作り上げていくのは、難しい作業でしょう。

すなわち、論理的に、具体的に説明することは、難易度が高そうなのです。
周辺をくるくると回ることが良さそうと書いたのは、そういう意味です。

本エントリの冒頭で、LiSAさんの楽曲「traumerei」をご紹介しました。そこで、「君」について具体的に説明せずに、周辺から描写しています。
引用いたします。
太陽に憧れたのは君みたいだから
太陽を遮ったのは君みたいだから
太陽の周りを走っています。


終わりに


ただ、周辺を走って手に入れた理解は、言葉に表せないことがあるかもしれません。