2014年5月3日土曜日

詮の無い、近未来

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複雑なこの世界の様子に思いを馳せるためには、教養が要ります。基本的に、教養は身につけるようにしたいと思っています。

自由な市民でありたいからです。

複雑な世界と書きました。
この世界は複雑である、といった言説を目にすることがあります。複雑だから、答えがいくつもありえたり、どちらとも言えなかったりするようです。

最近、気になっていることです。
本当に、世界は複雑なのでしょうか。どのあたりが複雑なのでしょうか。

私としては、世界は複雑であると、そんなに単純に断言してしまいたくありません。世界の複雑さにかまけて、思考を止めてしまっています。
いろいろと考察したうえで、注意深く、複雑さを了解したいのです。

世界なるものについて決めましょう。
ここでは、ある主体が、見たり、聞いたり、考えたり、といった個人的な認識を世界とさせてください。
空間にある物理的な事柄のすべて、などとしても構いませんが、それだと、私たちが普通には認識できない、あまり切実でない話題も含まれてしまいます。時空が膨張したり、水星の軌道が正しく観測できたりすることは、それほど切実ではないのです。GPSの精度が良くなるくらいのものです。

主体が世界を認識する経路は、ほんのいくつかあるだけです。視覚、味覚、触覚などです。この意味では、世界は複雑ではありません。

生物学の知識から、各々の感覚がそれほど多様でないこともわかっています。
視覚なら、色は赤と緑と青の三種類しかありません。味覚は五種類です。触覚は、皮膚感覚の仲間のひとつで、他には痛覚、温覚、冷覚、痒覚くらいしかありません。ちなみに嗅覚は四百種類くらいですが、それでも数え上げられる程度です。
もう少し他の例を挙げれば、DNAを特徴づける塩基はたった四種類しかありませんし、考えることは電気信号が発火するかしないかだけの問題です。

ここまでのところに、世界が複雑であると言い切れるようなものはありませんでした。それぞれを観察する限り、単純なのです。

とはいえ、私たちはいろいろな経路について、ひとつだけを選んだりはしません。赤色だけ、苦味だけを採用して、世界を認識することは決してないはずです。

したがって、世界が複雑になるのは、いくつかの経路の組み合わせのバリエーションを考えたときです。
基本的な要素が限られていながらも、それらの順列の状態数が多くなるのが複雑なのです。

すると、世界を複雑だと思う人は、少なくとも次の問いに答える必要が出てきます。
すなわち、基本の要素は限られていて、ただバリエーションが多いだけのものを、複雑と呼んでいいのでしょうか、という問いです。

私が学んだことのある情報工学という学問には、計算論という分野があります。
実は、計算論の知識がある人にとって、先の問いへの答えは明らかです。

要素が単純でただ組み合わせの数が多いだけのものは、少しのわだかまりもなく複雑です。
計算論を見れば、バリエーションが多いことがどれほど手に負えないか、実感できます。オーダとか多項式時間といった言葉は、そのために存在しているのです。

学ぶということは、自分の概念を増やして、心を豊かにすることです。それまでになかった直感を身につけることです。

以上のような紆余曲折を経て、世界は複雑であると、私は直感します。
(この意味では、計算論を学んだことのない人が、世界の複雑さをどのようにとらえているのか興味があります。)

情報工学といえば、よく、ソフトウェアを作るということが人類にとって困難だと言われます。述べてきたような複雑さを前提にしていることが多いようで、私も同意するところであります。
このあたりを誤解のないように書くのは大変です。さしあたって、ハードウェアよりソフトウェアの方が複雑だから、とさせてください。
ハードウェアは発展していくのにひきかえ、ソフトウェアはいつまでもある程度のところにとどまってしまいます。

いま、近未来のAIのようなものを考えます。何でも構いません。近未来らしいものをご想像ください。ドラえもんでよいです。
近未来というのは、なぜなのか、ずっと近未来のままのようです。少し、実現していく様子に思いを馳せてみましょう。

ハードウェアに関しては、まず間違いなく実現できると思います。実現という言葉があやふやであるものの、これまでのハードウェアの発展の歴史を考えると、実現できないと考える方に不自然さがあります。
他方で、おそらく、ソフトウェアの方は実現できません。人類には難しすぎるためです。
ネコ型ロボットのハードウェアが作れるようになっても、ソフトウェアの方がボトルネックになって、ドラえもんは誕生できないと、私は思うのです。

ただし、ここでは、ソフトウェアという言葉に制約をつけて用いています。
ソフトウェアなるものが、現代の私たちが想像するような、間違いなく動作するものを指しているというものです。

ATMでお金をおろせること、車に乗れること、病院にかかれることなど、あらゆるところで、ソフトウェアは何事もなく動くことを期待されます。

それは、何かあったら、直せる人と責任をとれる人がいるということです。
そしてこのとき、近未来のAIを作ることはできません。

そうでないときなら、もしかすると、作れるかもしれません。
単純な要素から複雑なものを作り出す考え方なら、すでに存在しているためです。近未来のAIに応用できることもあるはずです。
たとえば、一からすべて作るのが人類には難しすぎるなら、単純な要素から勝手にできあがっていくようにすればよいのです。

何か、直感に反する手続きを使おうということです。
そうして、近未来のAIが無事に完成したとします。もう、人類の手には負えなくなりました。誰も複雑な構造を理解できないままに、出来上がってしまっているわけです。何かあっても直せませんし、誰にも責任がとれません。

次の課題が浮かんできたようです。

人類の手に負えないものを、私たちは作ってもよいのでしょうか。または、人類の手に負えなくても構わないような用途があるでしょうか。

私の抱く教養が、限界を迎えるときです。

誰にも責任をとれないものについて議論するには、民法と判例の知識が要ります。今までにない製品の用途を提案するのは、マーケティングや経営学の知識です。

本エントリの冒頭で、ある主体が認識するものを世界と決めました。この主体に、近未来のAIは含まれるのでしょうか。答えによっては、世界の様相が変わってしまいます。
哲学と生物学の知識です。

さらにいうなら、様々なややこしい事情を乗り越えてまで、人間は、近未来のAIなど作ろうとするものでしょうか。
心理学の知識です。

私の語りえない領域に、話が進展してしまいました。無理に語ろうとしても詮の無いことです。

自分に教養がないことを、大変に悲しく思います。輝かしい近未来に、思いを馳せることができないのです。

私は存じ上げませんが、きっと、このあたりのことを議論している方はどこかにおられるでしょう。機械工学、情報工学、ソフトウェア工学、民法、マーケティング、経営学、哲学、生物学、心理学の知識を合わせ持った方と想像します。

私はまだまだ修行が足りませんでした。

こうした教養をもって議論するというのは、自由な市民として生きることなのかもしれません。


終わりに


本文中では大したことでないように書きましたが、水星の軌道が正しく観測できたり、GPSの精度が良くなるのは、大変に素晴らしいことです。
言葉の綾でした。

それから、すぐ上で、修行が足りないとも書きました。これも言葉の綾です。
教養を身につけようとすることが修行なのかどうか、議論の余地があるためです。