2014年8月3日日曜日

青緑色ギャラクシー

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道具という言葉は、なかなかに定義するのが難しいものです。

倉下忠憲さんの書籍『まるで未来からやってきたかのような』を読みました。

R-style » 『まるで未来からやってきたかのような』が発売されました。

その中に、「”道具に使われている”という言葉」との節がありました。
(ブログ記事で読んでいるはずなのですが、改めて)興味深く感じました。

ところで、先日、某所にて講演を聞きました。

そこで「技術は数年で陳腐化する」「理念は百年続く」とのお話がありました。

妙にアトラクティブな標語です。
少し考えてみます。

「技術は数年で陳腐化する」の方から始めます。

それほど、議論の余地はないだろうと思います。といいますか、技術は現実に存在しているものですので、議論ではなく、観測です。
技術が陳腐化するかどうかをよく把握できるのは、賢い人ではなく、落ち着いて観測する人です。

わりと、広く敷衍できる考え方かと思います。

私の観測によれば、数年で陳腐化してしまった技術を見つけるのは、なかなかに困難です。
基本的なところで私たちの生活を支えている様々な技術は、どれも、十年の単位で使われ続けています。陳腐どころか、ダイナミックに進展すらしています。

生存者バイアスでしょうか。
そうだとしたら、なおさら、あらゆる技術は陳腐化せずに使い続けられるように見えるものの、実際のところはどうだろうか、と考えていくのが自然です。

もちろん、時とともに新しい技術は生まれます。否定できないことです。だからといって、それは既存の技術を陳腐化させることにはなりません。

「理念は百年続く」というお話はどうでしょう。

書籍『無限の始まり』(デイヴィッド・ドイッチュ)に、興味深いエピソードがあります。

著者のドイッチュさんが、天文台で星空を写した写真から、銀河の位置を手作業でカタログ化する仕事を手伝っていたときのことです。昔の話です。現代なら、パターンマッチングのアルゴリズムでできる作業です。

写真では、恒星や銀河は黒い形に、背景の宇宙空間は白く写っているそうです。ご想像いただけますでしょうか。
モノクロのぼやけた写真を見て、ここに銀河、そこに恒星、と記録していくわけです。大変そうな作業です。

さて、ドイッチュさんが、一枚の特にわかりにくい写真を作業することになりました。写真を見せてくれた人に、「これは銀河? それとも恒星?」と尋ねます。

次のような回答でした。
「どちらでもない」というのが答えだった。「そこは写真乳剤がうまく反応しなかっただけだ」
銀河が恒星かと思っていたものは、ただのしみでした。
ドイッチュさんは続けます。
突如として、その写真には天文学者も、川も、地震も存在しなくなった。空想のかなたに消え去ってしまっていたのだ。私は、自分が見ているものの質量を一〇の五〇乗ばかり多く見積もりすぎていた。
描いていた壮大なドラマが、勘違いだったことに気づきます。
ところが、そこで、重要な知見に至ります。
しかしちょっと待てよ、と思った。私は一つでも銀河を見ていただろうか? 他の斑点もすべて、本当は非常に小さな感光剤のしみだったのである。
もっともです。銀河を観察するために、空を見上げていたわけではありません。
ずっと、写真に写ったしみを見ていただけです。

ここから、何かのデバイスを用いた観測が間接的であることについて、論じます。
間接的な観測には、理論と知識が要ります。それでいて、銀河の観測として、空を見上げるよりも正確です。
観測の間接性を増す層はそれぞれが、関連する理論を通じて、誤りや幻想、誤解を招くような観点や、ギャップを修正しているのである。もしかすると、本当に正確な観測はいつでも非常に間接的だという話が奇妙に思えるのは、理論を含まない「純粋な」観測という、誤った経験論的な理想があるためかもしれない。しかし、進歩とは、観測に先立って、非常に多くの知識が活用されていることを求めるものだ。
正確な観測は間接的です。そして、知識は観測よりも前にあります。

話が変わります。
human-based computing と呼ばれる、新しい思想があるそうです。

概要を述べます。
これまでの時代では、人間の仕事を、可能な範囲でコンピュータに委譲していくのが基本でした。人間の仕事という大きな領域があって、そこから上手に切り出したものをコンピュータに依頼していたわけです。ずっと、コンピュータとはそういったものでした。

新しい考え方とは、その反対のものです。
コンピュータにしかできない仕事があって、一部を人間が手助けします。目的を抱くのはコンピュータで、必要に応じて人間を使ったりします。

私が聞き及んだ具体例をご紹介することとしましょう。
登場するインスタンスは二つです。

一つめです。
この世界のどこかに、OCR技術で古い文書の電子化を進めているプロジェクトがあるそうです。たぶん、こうしている間にも、次々に電子のデータが生成されているものと思います。

二つめです。
ウェブサイトのアカウント登録で、パスワードを入力した後などに、不自然に歪んだ文字の画像を目にしたことがあるかと思います。
画像を見て、描かれている文字をテキストボックスに入力し、submit すると、無事にアカウントを作ることができたりします。

さて、不自然に歪んだ文字を入力するというこの行為は、一つめの、古い文書をOCRにかける際のサンプルとして蓄積されていることがあるそうです。
人手で入力しているわけですので、これほどの標本は望むべくもありません。

コンピュータの仕事を人間が手伝うことについて、雰囲気が感じられましたでしょうか。

強調したい点があります。
コンピュータの仕事を人間が手伝うのですから、仕事への主導権はコンピュータが持ちます。仕事に関して理念や実作業といった分類が存在するとしても、それを判定するのはコンピュータです。
human-based computing における人間の作業は、目的や手段からかけ離れたところにあるのです。

human-based computing がどれほどの将来の話なのかはわかりません。すでに、現代はそのような時代なのかもしれません。
いずれにせよ、その時代に人間の作業を遂行するためには、直感に反する心構えが必要になるはずです。作業が目的や手段とかけ離れているなら、それらを礎に進んでいくことができないためです。

理念とか目的のような空想を持ち出ことはできません。コンピュータが決めるものだからです。

仮説と、知識と、観測を、いずれもたくさん抱いておくというのが、健全な姿だろうと思います。
そして、コンピュータの演算結果に合わせて、それらを少しずつ更新したり、棄却したりしていくわけです。続けていくと、理念とも呼べるものができあがっていくのかもしれません。

ある意味で、道具に使われる未来です。
コンピュータの演算結果を通して世界を観測するというのは、大変に間接的です。人間が自分で世界を見て、コンピュータに適当な仕事を渡すのとは違います。
つまり、観測に先立つ知識が良いものであるなら、人間が自分で見るよりも正確なのです。

それから、上で、既存の技術が陳腐化していないのに、次々に新しい技術が生まれていると書きました。人間の数と能力はそれほど増えていませんので、道具に使われる部分がどんどん増えているはずです。

同時に、いかにして道具に使われる部分を増やしていくか、思案していく必要があります。
道具という言葉の意味を拡張するか、新しい言葉を用意するのがよいのかもしれません。


終わりに


話の都合上、コンピュータを過大に神聖なものとして書いてしまっています。
不本意なところもありますことを、ここに表明しておきます。