2014年6月25日水曜日

本と私の相互作用

Clip to Evernote
好きなものの種類を尋ねられると、不思議に答えにくいものがあります。

私は本を読みますので、どんな本が好きなのか、といった質問に直面することが多々あります。
はたと立ち止まってしまうのです。

好きなものも、私も、変化し続けているということが、答えにくさをもたらしているような気がします。

私なりに、ちょっとした回答がないわけではありません。ただ、おそらく質問した人はそれを求めていませんので、回答と呼ぶのはおこがましいところです。思い、とでもしましょうか。

どんな本が好きなのか、についてです。
いろいろな本が好きなわけです。

画一させた思いを述べるなら、私は、人類の知識やアイデアが進展するところに興味があります。そんな本が好きです。
あまり厳密ではないものの、何かの問題があったとして、その回答に関心があるわけではないということと、だいたい同じ意味のように思っています。

ドラッカーが、『マネジメント』で述べたことを思い出します。
大事なのは、問題への答えではなく、問題についての理解である。
問題への答えを得るより、何か基本的な人類のアイデアが進展する方が、リーチが大きくなります。私たちに強く寄与します。

フレームワークという言葉があります。
私が基本的な人類のアイデアと呼んだものと、フレームワークとは、似ているように感じるかもしれません。

どうも、フレームワークなるものは広い意味を採りすぎているきらいがあり、話がややこしくなります。フレームワークとは、ある特定の事象を示す言葉ですので、それほど便利に使うことはできません。

フレームワークには、配下に、実装する個別の要素が必ずあります。配下の要素は、フレームワークのすべてをことごとく実装します。
一部を採用して、ある一部は採用しないようなことがあってはなりません。個別の要素どうしで、共通のフレームワークを持つことが保証できなくなってしまうためです。

また、ひとつの要素が複数のフレームワークを使用する際には、多大な注意を要します。
フレームワークと配下の要素の間には関連がありますが、フレームワークどうしにはありません。それぞれは勝手に作られたものですので、競合しないか、重複しないか、大変に神経を使うのです。

私が基本的な人類のアイデアと呼んだものは、フレームワークではありません。アイデアと回答の関係は、フレームワークと配下の実装のそれではありません。

アイデアや知識は、推論とか、飛躍から生まれるものです。行動できるような回答とは、直接には関係しないのです。
回答と関係しないからこそ、アイデアは、様々な回答へのリーチが大きいのでしょう。

フレームワークといえば、関連して、素晴らしい言及を目にしました。

choiyakiさんの書籍『Evernote×情報カード知的生産』からです。
Evernoteには、「ノート」という形で、情報は保管されます。ノートには、必ず「タイトル」をつけなくてはなりません。作成・更新日時が付加され、ノートブックに割り振らなければいけません。位置情報やタグがつく場合もありますが、最低でも「タイトル」「作成・更新日時」「ノートブック」という3つのメタ情報が「ノート」には付加されます。どのノートにも必ず、です。
Evernoteに保存される情報は、「タイトル」「作成・更新日時」「ノートブック」の3つが必ず付加される点で、規格が統一されているといいます。
このことを、梅棹忠夫さんが『知的生産の技術』で述べた、知的生産における規格の統一の重要さと対比して、Evernoteと知的生産について論じておられます。

Evernoteにある情報が規格を統一されることをもって、知的生産への有用さをこれほど明確に唱えた意見を、私は見たことがありませんでした。
人類のアイデアが進展した瞬間です。

規格が統一されていることは、一列に並べられることを意味します。
Evernoteにある情報は、ノートブック、タグ、そして検索を用いて整理されます。このあたりは妙にアトラクティブなのですが、それとは別に、すべての情報を作成日順に並べられる点も見逃せません。情報が規格化されていることに着目するなら、むしろこちらの方が重要です。

規格化されていない情報は、人の手で、何らかの分類と整理が必要です。
情報を、ましてや個人に関する情報を、整理するのは難しいことです。

こちらの記事を読みました。

R-style » Evernoteのユーザー数が一億人を突破、そして高度情報化社会市民としての知的生産

次のようにあります。
以前どこかで書いたが、私はEvernoteが「あたりまえ」に使われるツールになると考えている。「Word,Excel,Evernote」ってな具合に。
Evernoteが「あたりまえ」のツールになるということの意味は、情報の規格が統一されること、そうでない情報は整理が難しいこと、の周辺あたりにあるのではないかと思っています。

これも、『Evernote×情報カード知的生産』で触れられていました。
考えたことや思いついたことを書きとめた、"自分発"のものを「自分資料」、ネットや本など、"自分以外の誰か"が書いたことがらを、「他者資料」と名づけました。他には、時間のログや日記など、過去の「記録」も、知的生産をおこなう上での、立派な「資料」となり得ます。
「自分資料」と「他者資料」、そして「記録」の3種類の分類を掲げた上で、資料はいつもいずれかに整理できるといいます。

大変に興味深いことが述べられています。ここには、分類と整理の難しさが発生しないといわれるのです。
この分類が、誰かの個人的な事情や、時と場合などに依存しないためでしょうか。

分類とは、自分なりに使いやすいものを模索するのが望ましいのでしょうが、なるほど、外から押しつけて作ると曖昧にならないようです。思えば、すべてのノートを作成日順に並べることも、外から押し付けた基準です。
分類する難しさを回避するためには、考慮に入れておきたい方針です。

さて、誰かの個人的な事情に託さずに、客観の基準で情報を判定すると、分類が難しくならないということでした。
裏返せば、客観ではない知覚によって情報のインプットを測定したときには、その結果がいつも取り扱いにくいものになるわけです。

不思議に思えます。

ドラッカーは、この点にも気づいていました。『マネジメント』からです。
組織においてわれわれが扱う人間社会、すなわち複雑な知覚の世界においては、測定という行為は客観的でも中立的でもありえない。
知覚すること、測定すること、といったことが、客観的ではありえないといいます。

ここに、情報のインプットとアウトプットという考え方の重大な欠陥があります。
インプットを人間に与えると、アウトプットが返されると言われます。プログラミングからのメタファなのでしょう。
(あるいはチューリングマシンか、オートマトンか、λ計算でしょうか。どれも同じでした。)

このメタファが、致命的に不適切です。

インプットを人間に渡そうとしている限り、インプット情報と人間と、いずれも客観の存在ではいられません。
人間はインプットに、インプットは人間に、いつまでも影響を与え続けます。アウトプットと人間の関係も同様です。

インプット情報も、人間も、時間の経過の中の相互作用でしか存在することができません。
入出力と演算するモジュールが完全に独立している、あるいは独立させられるプログラミングの世界とは、違うのです。

人の知覚による情報の分類が、いつも難しいのはこのためです。
人間と情報が時間とともに変わり続けているところを、適当なところで中断して、測定したことにして、何かの分類に押し込めようとするわけです。中断するタイミングがほんの少し違えば、人も、情報も、別のものになるはずなのです。

だからこそ、どんな本が好きなのかを回答するのが難しいのでしょう。質問された瞬間に、本と私の相互作用を停止させて、何かそれらしい測定結果を決めているのです。
利用できるフレームワークでもあれば、実装して、楽に回答できるのかもしれません。


終わりに


とはいえ、基本的な人類のアイデアが進展するところに興味があるというのは、悪くなさそうなアイデアです。
様々な回答へのリーチが大きそうです。