2020年12月31日木曜日

six albums of the year (2020版)

2020年は、年始にPCを新調したところから始まりました。古めかしいPCで長らくがんばっていましたが、Windows7が終わるとのことで断念したものです。Windows10になりました。何から何まで快適になり、とても満足しています。大きなトピックです。

PCが新しくなったことに気をよくして、オーディオ・インタフェースも購入しました。2月のことでした。PRESONUS AudioBox iTwo です。購入の時点で、最新よりひとつ前のモデルだったものの、見た目も格好良く、選んでみました。よい買い物でした。

PRESONUS AudioBox iTwo には、Studio One のArtist版がバンドルされています。DAWソフトです。これも今年から使い始めることになりました。思い返すと、DAWには、学生のころからいろいろなメーカのものにトライしては、よく理解できずに挫折していました。Studio One だけはなぜかするっと操作することができて、使い続けています。

Studio One が突出して優れているのか、昔のDAWソフトがどれも難しかっただけなのか、私が成長したのか、なんとも言えないところです。2021年は Studio One をずっと使っていきたいと思っています。

書籍『存在の彼方ヘ』(エマニュエル・レヴィナス 著, 合田 正人 訳)に、次のようにありました。
だから、そもそも意味が現出するためにも、主題化は不可避なのだ。主題化というこの詭弁のうちで、哲学は始まる。だが、哲学の使命はこの裏切りを還元することである。
PCを新調したことで何の気なしに買ったオーディオ・インタフェースを、今年はこんなに使うことになるとは思いませんでした。配信ライブを見ることになったためです。今年、たくさんの配信ライブを見てきて、楽しみ方がだいぶわかってきた感じがあります。2019年に買ったヘッドフォン audio-technica ATH-AD500X も想定外の活躍をしました。オープン型のヘッドフォンは、配信ライブを見るのにも向いているような気がします。

私は何を隠そうトラックボール派で、ミーハーなので、ロジクールのM570のファンでした。今年、まさかの新モデルM575が出ましたので、すぐに買い換えました。ミーハーだからです。素晴らしく進化していると思います。傾きの角度が変わっているところがよいようです。作業が楽になりました。

新たに、小さいノートを持ち歩くことにしました。ダイアログノートです。メモの類は名刺サイズの情報カードに書いていましたが、持ち歩きには不便でしたし、なんというのか、どうでもいいようなことをがしがしと書くような感じではなかったためです。ダイアログノートを持ってみるとやはり楽しく、情報カードとは違うことを書いている感じがあり、どちらも併用することとなっています。

ダイアログノートと同時期くらいに、新しい万年筆も買いました。LAMY Safari です。ずっと見ないようにしていたのに、ついに買ってしまいました。

Safariは、インクの残りを見る覗き窓があまり格好良くないと、自分に言い聞かせていたはずだったのですが、スケルトンだったらあまり関係ない、どころか、それも格好良いことに気づいてしまったのです。結局、すごく満足しています。関係ないのに、2019年限定カラー、ブロンズのインクも買ってしまいました。Safariは持った感じが軽く、道具としてハードに使える感じが気に入っています。

何の話かといいますと、私は毎年、その年によかった音楽アルバムを六枚選ぶことにしているのです。
さっそく、始めます。



『Frozen Dust』 / Teruyuki Kurihara

音楽を聴くことには、こんな音楽を作り上げてしまう人がいるんだ、という畏敬の念が、私の根底にあるような気がします。本を読むことも同じかもしれません。

こんな音楽を作り上げてしまう人がいるのです。



『PSR B1919+21』 / NECO ASOBI

哲学が始まります。



『スティルライフII』 / haruka nakamura

だから、哲学というのはいつも日常と隣り合わせにあります。



『Zealot City』 / a crowd of rebellion

非日常も、隣り合わせにあるのかもしれません。私は日常が好きです。非日常も、たぶん好きです。日常と似ているものだと思うからです。



『Synergetics / Entropy』 / Yui Onodera

音楽は、日常の近くにも遠くにも存在していることができます。だから、ずっと音楽を聴いているのかもしれません。



『THA BLUE HERB』 / THA BLUE HERB

誰もが、そして私も、日常と非日常を形作っているのです。


終わりに


私の音楽の聴き方にバリエーションができた一年でもありました。カセットテープを買うようになったことと、Bandcampで音源を買うようになったことです。Spotifyばかりでやってきましたが、なぜだか、単一のプラットフォームだけでは聴くことのできない音源に行き当たるものです。

CDを買っていたころからそうでした。欲しい音源が、レンタルCD店で見つからなくなり、近所のCDショップで見つからなくなり、大手CDショップで見つからなくなり、ネット注文でも買えなくなり、いろいろあってカセットテープとBandcampに行き着いたりしています。そういえば、本を買うこともそうです。欲しい本が、書店で見つからなくなり、ネット注文でも買えなくなり、電子書籍でも買えなくなり、ちゃんと発送してくれるのかどきどきしながら古書を取り寄せたりしています。

ずっと、このあたりを試行錯誤している人生のような気がします。それでも、技術が進歩していることの恩恵は受けています。ありがたい限りです。

書籍『青い花』(ノヴァーリス 著, 青山 隆夫 訳)に、次のようにありました。
「どうぞ良心の本性をおしえて下さい」
「それができるなら、わしは神になっている。なぜなら良心は理解することによってはじめて生じるものだから。わしに文芸の本質を教えることがおできになるかな」
私は日常が好きです。私の好きな記事をご紹介します。

日常を支えるという非凡な能力 | Notebookers.jp

私の文章をお読みの方も、そうでない方も、今年一年私と関わりのあった方も、そうでない方も、私の好きな日常を、少しずつ支えてくださっています。

日常というのは、非日常のそばにあります。私の日常は、私と関わりのない方々が多くを支えてくださっているものです。

ありがとうございます。
これからも、よろしくお願いいたします。

2020年12月28日月曜日

2020年の<びっくら本> #mybooks2020

ずっと、勝手な本を選んで、勝手に読んできました。誰のためでもありません。自分のためとも、ましてや思えません。信じられないような本を読むことがあります。

読んだ本のリストを真剣に作るのは、そう悪いことではないようです。積極的な意味がないからでしょうか。誰のためのリストでもありません。それでいて、自分のためとも思えないものです。

こちらの記事を読みました。

【企画】2020年の<びっくら本>を募集します #mybooks2020 – R-style

今年は異様な本を多く読んだような気がします。奇書といってもよいかもしれません。自分が異様だと思った本を人に勧めようとはさすがに思いませんし、語りたいとも思いません。誰のためでもないし、ましてや自分のためでもないというのは、そういう感じです。

だからこそ、読んだ本のリストを真剣に作ってみます。



『遊歩大全』(コリン・フレッチャー 著, 芦沢 一洋 訳)

信じられないような本を読むことがあります。思想だけでも実利だけでもなく、その両方である、という触れ込みはよく聞きます。その、どちらでもないということがあったようです。壮大で胸を打つ、どちらでもなさです。



『CULT of Pedals 世界初のビンテージ・エフェクター・コレクション本』(細川 雄一郎)

「ビンテージ・エフェクター・コレクション」の本というのはよい表題です。「ビンテージ・エフェクター」の本ではないということです。

私にコレクションの趣味はなくとも、気持ちはとてもよくわかります。



『開かれた社会とその敵 第一部 プラトンの呪文』『開かれた社会とその敵 第二部 予言の大潮』(カール・ライムント・ポパー 著, 内田 詔夫 訳, 小河原 誠 訳)

心の広いような狭いような感じです。



『モモ』(ミヒャエル・エンデ 著, 大島 かおり 訳)

熱中して文字を読むことは、楽しいことだと思いました。それ以外ない、といえばそうです。私には文法や文体をすごく好きなところがあるのです。



『四色問題』(ロビン・ウィルソン 著, 茂木 健一郎 訳)

得意なことの違う人が、いろいろといるものです。嬉しくなります。



『エルサレムのアイヒマン ――悪の陳腐さについての報告【新版】』(ハンナ・アーレント 著, 大久保 和郎 訳)

世の中にはすごい本があります。私としては、これも奇書と呼びたいところです。悪は陳腐になったのかもしれません。



『青い花』(ノヴァーリス 著, 青山 隆夫 訳)

完成していない本だってあります。読むうえでは大したことではないようです。



『サイバー攻撃 ネット世界の裏側で起きていること』(中島 明日香)

真摯に本を書こうとすると大変なことになってしまう人が、世の中にはたくさんいるようです。いまリストしている10冊は、すべてそうかもしれません。素晴らしいことだと思います。感動的ですらあります。



『存在の彼方ヘ』(エマニュエル・レヴィナス 著, 合田 正人 訳)

自分の信じる論理に、真摯であろうということでしょうか。



『ことばのロマンス ―英語の語源』(アーネスト・ウィークリー 著, 寺澤 芳雄 訳, 出淵 博 訳)

自分の信じる感情に、真摯であろうということでしょうか。


終わりに


その、どちらでもないのかもしれません。

誰のためでもないし、自分のためとも思えない、ということがあります。そうやって、私は本を読んでいるような感じです。勝手な本を選んで、勝手に読んでいます。

何か民俗的な象徴があるのかもしれません。そう言われてみると、ひょっとしてこの本は奇書かもしれない、と自分で発想できるようになったのは、今年が初めてです。来年はどんな風に本を読むことになるのでしょうか。今から楽しみです。

2020年11月8日日曜日

11月といえば自分の好きなブログを告白する月…ということです2020

同じことばかり続けているようでも、自分なりに小さく発想して、小さく試してみることができます。

こちらの記事を読みました。

〝阪神大好き歌手〟河野万里奈 中学時代に転機「鳥谷様に一生ついて行こうと…」自曲は中継ぎ・岩崎の登場曲に

次のようにあります。
 河野 私、中学時代はテニス部に入ってたんですけど、無口でうまくいかなかったんです。しんどい時期に鳥谷様が阪神に入団した。派手ではないし、寡黙でリップサービスもない。プレーで結果を出して周りを納得させたでしょう。そこを見て、無理して周りにこびたりしなくていいんだ、やるべきことをやって結果で語れば友達もできる、居場所もできると学んだ。
言われてみれば確かに、派手ではないプレースタイルです。気づけばスター選手になっていて、その確実なプレースタイルを忘れていたところがありました。守備がうまく、確実に試合に出続けることのできる選手なのです。

結果で語ってチームを引っ張り、いつしか見ず知らずの人の支えになっています。

さまざまなプレースタイル、個性を持った選手がいます。プロ野球を見る楽しさのひとつかもしれません。皆が、自分なりのやり方、創意でチームを形作っている感じが、私は好きです。

それから、こちらの記事も読みました。

SKEのカープ女子・藤本冬香「堂林選手の覚悟と活躍に勇気づけられました」

次のようにあります。
それでもくじけそうになったとき、いつも力を与えてくれるのはカープの選手たちだ。特に開幕から大活躍の堂林には勇気をもらった。「自主トレで堂林選手は(後輩の)鈴木誠也選手に弟子入りしたんです。先輩なのにプライドを捨てて自分が強くなるために振り切った。そういった姿勢をわたしも見習おうと思っています」
堂林選手のこのエピソードには、私も強く感銘を受けました。

ともすると、私は同じことばかり続けてしまいがちです。同じことを続ける中でも、発想して、よいと思うことを試してみることができます。小さな発想と、小さな試行です。発想して試してみるということ、そのものに、感動があるように思います。

各々が懸命に何かに取り組んでいる様子が、知らぬ間に誰かの支えになっているということがあります。

何の話かと言いますと、11月といえば自分の好きなブログを告白する月なのです。
さっそく、始めます。



konama|note

私も、本と万年筆が好きです。
本を好きな感じと、万年筆を好きな感じが、とても好きです。



R-style

今年もいろいろなことがありました。
ブログを更新するのには労力がかかります。いろいろな仕事を並行している中で、少しずつでも、止めずに続いているのはよいことだと、私は信じています。



涯てお茶

書くことを好きな方がいらっしゃることが、本当に嬉しいです。
書くことを好きでいてよいのだと、いつも勇気をいただいています。



gofujita notes

ですので、そう、私も書く人でありたいと思っています。
だとしたら、考えたことを考えずに書きます。



くらしすたんと365+1 | Every day is a new day.

ブログ10周年おめでとうございます。
視線が具体的なところが好きで、ずっと読んでいます。日常というのは具体的なものだからです。

あと、ブログのデザインがしゅっとしていて、とても綺麗です。
つい見たくなります。



Word Piece

わかっていると思っていたことがぜんぜんわかっていないかもしれないことがわかっている自信があるという事柄が、私にも一つ二つあるように感じます。嬉しく思いました。



ディレイマニア

発想して新しいことをを試してみるということ、そのものに、感動があるように思います。
新しいことを試している姿があります。



iPhoneと本と数学となんやかんやと – あなたになんやかんやな、なんやかんやを

何かに取り組んでいる様子が、知らぬ間に誰かの支えになっているということが、本当にあるのです。
いつもありがとうございます。


終わりに


皆が、自分なりのやり方、創意で日常を形作っている感じが、私は好きです。

2020年10月31日土曜日

別の語へ波及する閃光

カセットテープにはA面とB面があります。長らく忘れていました。

書籍『青い花』(ノヴァーリス 著, 青山 隆夫 訳)に、次のようにあります。
ところでこれは断言してもいいほどだが、どの文芸においても、混沌が整然とした秩序のヴェールを通してほのかに光を放っていなければならぬということだ。着想の豊かさも、さりげなく配置されてはじめて、それと知られもし、ゆかしいものになるのだ。それに対してただの均整を求めるなら、数字を並べて作られた無味乾燥な図形にもあるではないか。
すぐれた詩がわれらのすぐ傍にあり、またありふれた対象が絶好の素材となることもまれではない。詩人にとって、詩は限定された道具の制約を受けているがゆえに、芸術となるのだ。
アンダグラウンドな音楽アーティストが、カセットテープで新譜をリリースするのを目にすることが多くなりました。ここ1~2年くらいのことだと、私は感じています。カセットテープで、限定30本ほどしか販売しなくて、売り切ったら廃盤の扱いになります。アーティストの事情は存じていませんが、リスナとしては、カセットテープでリリースするというのは面白いので、ぜひ応援したいと思っています。

そのためにも、私は先日、ポータブルのカセットプレイヤを購入しました。懐かしいものです。当時は当たり前でしたが、有線のイヤフォンしか差すことができません。最近は Bluetooth のイヤフォン、ヘッドフォンばかりだったので、カセットプレイヤで使うための有線イヤフォンも購入しました。どちらも2000円くらいのものです。

よいイヤフォンの説明には、なかなか難しいところがあります。イヤフォンのレビューには、高域が迫ってくる感じとか、低域の臨場感だとか書かれることでしょう。イヤフォンというのはもっと、日常を共にする、生活に密着した道具という一面があります。オーバ・エンジニアリングでなく、大げさでない音質で、ヘビー・デューティな、生活にがしがしと取り入れたくなるイヤフォンが、カセットプレイヤには合っています。

ちなみに、イヤフォンやヘッドフォンに対してのレビューではなく、人に視線を向けた、あなたの使っているヘッドフォンについて教えてください、のような企画だと、日常を共にする道具としてのコメントを読むことができます。「コードだけを簡単に取り外せるので、断線しても交換がしやすい」とか、「頭の形にちょうど合っていて外れにくい」とか、「形状が作業デスクのここに引っ掛けやすい」とか、「尊敬する先輩にもらった」とかです。私には、こういったレビューのほうが読んでいて楽しく、参考にもなります。

しばらくSpotify一辺倒だった私です。カセットで音楽を聴くというのもなかなかよいものです。あるアルバムを聴き終えて、別のアルバムを聴くためには、プレイヤの蓋を開けて、テープを取り替えないといけません。半分聴き終えたら止まってしまうので、B面を再生し直さないとなりません。

カセットで音楽を聴くこと、それから、カセットプレイヤというのもよいものです。PCやスマートフォンを、何よりネット接続を必要としません。カセットで音楽を聴くための道具です。そう、確かに道具だという感じがします。

書籍『記号と事件―1972‐1990年の対話』(ジル ドゥルーズ 著, 宮林 寛 訳)にありました。
主節と従属節のあいだには、文が完全な直線に見えるときですら、いやそう見えるときこそ、緊張と、ある種のジグザグ運動がなければならないのです。語と語がたがいに遠く離れていても、ある語から別の語へと波及する閃光を語そのものが産み出すとき、文体はあらわれるのです。
雑誌『サウンド&レコーディング・マガジン 2020年11月号』(リットー・ミュージック)に、興味深い記事が載っていました。TASCAMのハードウェア・エンコーダVS-R264です。
今回行われた配信ライブの真骨頂は、YouTube配信のセッティングだ。映像はカメラを3台使用したマルチアングル。音声はニコニコ動画と同じく、Model 12 にサミングされた2本のマイクの音声を使用。Model 12 からアナログでスイッチャーSONY MCX-500へ音声を送り、そこからHDMI端子でエンコーダー/デコーダーのVS-R264へ伝送。コンピューターレスで配信された。
今の音楽業界でライブ配信といえば大きなトピックです。TASCAM VS-R264に映像・音声をインプットすることで、PCやスマートフォンなしでライブ配信が可能であるようです。VS-R264を、ライブ配信の専用端末として使うことができます。

同記事によると、TASCAM社は、今のようにライブ配信の気運が高まるずっと以前から、ライブ配信のための機材を研究してきていたそうです。TASCAM社の製品ラインアップからすれば当然のようでもあり、しかし、そういうすごい人が世の中にいるのです。

それにしても、この、ネットワークに自身で接続してライブ配信をするための端末、という発想には感動しました。ライブ配信の専用端末という存在そのものに、なんだかぐっとくるような感じがあります。PCやスマートフォンを必要としないところがとてもよいです。

映像と音楽を、ライブ配信することしかできない道具です。そう、確かに道具だという感じがします。

書籍『フランシス・ベイコン・インタヴュー』(デイヴィッド・シルヴェスター 著, 小林 等 訳)に、次のようにありました。
結局、私は何かを語ろうとしているのではなくて、何かを行おうとしているのです。
先日、Google Nest スピーカを購入しました。"OK, Google" と話しかけると応えてくれます。

"OK, Google" はさておき、Spotifyユーザには見過ごせない機能があります。多くの場合で、SpotifyはPCのWebブラウザやスマートフォンのアプリを使います。そのPCやスマートフォンがネットに接続して、音楽を再生します。当たり前のことではあります。

Google Nest では、スマートフォンをコントローラとして使い、Google Nest 自身がネット接続して、Google Nest 自身のスピーカで音楽を鳴らすことができます。スマートフォンはあくまで、選曲や再生のコントロールのみです。スマートフォンのネット通信のパワーを使うことなく、音楽をストリーミングすることができるわけです。

あたかも、Google Nest が Spotify の専用端末になったように使うことができます。すごく、ぐっとくる感じがあります。Spotify をストリーミングするためだけの道具のようになるからです。そう、確かに道具だという感じがします。

ひとつのことしかできない道具にぐっとくる感じがあるというのは、不思議なものです。PCやスマートフォンのように、何でもできる端末にはないものがあります。ひとつのことしかできない、それも使い慣れた道具を、身のまわりに置いておくのは、よいものです。孤独があるのかもしれません。孤独に耐えることであり、孤独であろうとすることでもあります。自分なりになんとかやっていけるという、納得感のようなものです。

書籍『数学は最善世界の夢を見るか? ――最小作用の原理から最適化理論へ』(イーヴァル・エクランド 著, 南條 郁子 訳)に、次のようにありました。
ガリレオやライプニッツはこの世界が神によって創造されたと信じていた。このことを理解せずに彼らの思想を理解することはできない。
では、私が信じているのは何でしょうか。
混沌が、整然とした秩序のヴェールを通して、閃光を放っていなければなりません。


終わりに


日常は限定された道具の制約を受けているがゆえに、何かよいものになるのでしょう。
芸術ではなくて、エンジニアリングに近いものだと感じています。A面とB面のようなものです。

2020年6月4日木曜日

奇蹟の中に現実を追う

各々が、自分なりの学びで、それなりにやっていくということがあります。独自のがんばりの先に、独自の楽しさがあります。他人に伝えることのできない、自分なりの楽しさがあるというのはよいものです。自分を信じているということの、具体的な様相だと思います。

書籍『ゾウの時間 ネズミの時間』(本川 達雄)にありました。
小回りがきくことと安定していることとは、相容れない性質だが、どちらを選んでも、ある程度は生きていけるもののようだ。地球の環境と言うものは、まったく変化がないわけでもなく、かといって天変地異の連続ばかりというわけでもなかった。現在、この地球上には、大きいものも小さいものも両方生きている。これは、どちらもそれなりの生き方でやっていけるということを意味するに違いない。
こちらの動画を見ました。

fhána 劇場版『SHIROBAKO』主題歌「星をあつめて」リリース記念番組【ふぁなばこ#5〜クリエイターズトーク with 林英樹編 前半】 - YouTube

fhána 劇場版『SHIROBAKO』主題歌「星をあつめて」リリース記念番組【ふぁなばこ#5〜クリエイターズトーク with 林英樹編 後半】 - YouTube

「前半」と「後半」があります。

バンドfhánaの佐藤さん、towanaさんと、fhánaの楽曲の多くを作詞している林さんが、いろいろとお話しされている動画です。「前半」は、動画タイトルにもある通り、映画『SHIROBAKO』についての話題が多くあります。私は映画、あるいはTVアニメを目にしたことがないのですが、『SHIROBAKO』は創作する人たちを題材とした物語とのことで、大変に興味深く動画を視聴しました。

書籍『暗号解読(上)』(サイモン・シン 著, 青木 薫 訳)に、次のような一節がありました。
それでも彼らが成功できた理由の一つは、どの棟にも、数学者、科学者、言語学者、古典学者、チェスの名人、クロスワード・マニアといった奇抜な面々がそろっていたことである。
創作の現場にも、いろいろな人がいらっしゃるそうです。

ちなみに、林さんという方がfhánaの楽曲の作詞をしているのは存じていましたが、私は姿をお見かけしたことがなく、動画を見て、実在するのかと驚きました。

「後半」は、話が発展して、お三方の創作の実作業についての話題となります。この「後半」が非常に面白い内容です。もの作りをする人、皆さんに見ていただきたい動画です。佐藤さんのとある言葉をお借りするなら「すべてのクリエイタと、その作品を愛するすべての人たちに」です。

創作の現場だからでしょうか、始めは格好良いお話です。創作のロマン、きらめきのようなものを感じられます。純粋に、もの作りに憧れるような話です。

途中、どうやって作詞しているか、何の道具で書いているか、という話になります。ここが秀逸です。

林さんは、スマートフォン一つで歌詞を完成させているそうです。これには私も驚きました。towanaさんは、紙とペンでないとできないとおっしゃいます。紙に書いて、詞の全体が見えている状態で、ここがBメロ、ここがサビ、と視覚的にわかる状態でないとできない、とのことです。

この対比は、人によって情報をどうとらえているかという点で、非常に興味深いものです。お二人のどちらの話とも、とてもよくわかります。私はどうだろうかと考えたくなりますが、今は先に進みます。

紙とペンでもよいかもしれないけれど、いつも懐にあって、すぐ取り出して書けることの方が、林さんは大事なのだそうです。

スマートフォンで書いているので、始めは姿勢もびしっとして書いていたはずが、だんだん崩れてきて、外が暗くなったのにも気づかずに部屋が真っ暗になって、コタツに潜って、横になって作業を続けます。横になっていても、必死で、目を血走らせて作業をしています。

なんというのか、とんでもない状態です。動画の始めの方で語られていた、創作のロマン、きらめきとは似つかない姿です。それを受けて、佐藤さんが、作曲でも同じだと話されます。姿勢もめちゃくちゃで、良い手法もなくて、ただああでもないこうでもないと悩み続けているだけです。

創作って、地味で泥臭いと、そんな格好良くないと、佐藤さんはおっしゃいます。

でも、地味で泥臭いながらも、その奥にきらめきみたいなものはやっぱりあって、追い求めています。地味で泥臭いがんばりの経験がある人でないと、語ることのできない言葉でしょう。

そんなに格好良くない話と、やっぱり格好良い話と、両方を同時にうかがうことができる、大変に面白い動画でした。
我が青春は淪落だ、と僕は言った。しかして、淪落とは、右のごときものである。すなわち、現実の中に奇蹟を追うこと、これである。この世界は永遠に家庭とは相容れぬ。破滅か、しからずんば――嗚呼、しかし、破滅以外の何物があり得るか!
『堕落論』(坂口 安吾)
こちらの二つの記事を読みました。

「あつ森」博物館は恐竜の最新学説に則った展示をしている? かはくの研究員に聞いてみた - エキサイトニュース

かはく研究員も就職したい『あつ森』博物館の魅力 「絶対に恐竜好きが作ってる」 - エキサイトニュース

私は「あつまれ どうぶつの森」なるゲームを存じ上げないのですが、それでも、記事の面白さはわかります。ゲームに登場する博物館が、最新の学説を取り入れながら、現実の博物館さながらの展示をしているのだそうです。

ゲームで博物館を作った人もそうですが、その意味に気づいて面白がることのできる研究員の方々に、私は感動しました。

なんというのか、端的に、学ぶことの意味だと思うからです。

文章を読んだり、文章を書いたり、考えたりすることがあります。大まかにいって、いずれも自分の知識を増やすことにつながる行為です。学びです。そう、昔から、知識が増えるというのは何なのか、よく考えていました。がんばって本を読んだり、文章を書いたりして、がんばって知識を増やすことについてです。

本を読むのも、文章を書くのも、多少なりとも苦労する行為です。行為すること自体が楽しいということは、もちろんあるでしょう。他方で、それは苦労することとほとんど同じ意味、トートロジーのようにも思います。

研究員の方々を見て、感じました。知識がなければ、気づくことのできない楽しさがあります。知識が深まるほど、思いもよらない、先鋭の楽しさに気づくことができます。

楽しさというのは抽象的なものです。思いもよらないものです。先鋭化していけばいくほど、この楽しさには世界で自分しか気づくことができない、楽しさを他人と共有することが絶対にできない、という状況になります。

なんと美しいことでしょうか。

楽しさというのは、元来より抽象的で、個人的なものです。世界中で自分にしか気づくことのできない楽しさが、世界のどこかにあります。いや、自分の中にあるのかもしれません。きっと、たくさんあります。

書籍『もうすぐ絶滅するという紙の書物について』(ウンベルト・エーコ 著, ジャン=クロード・カリエール 著, 工藤 妙子 訳)に、次のようにありました。
書物の一冊一冊には、時の流れのなかで、我々が加えた解釈がこびりついています。我々はシェイクスピアを、シェイクスピアが書いたようには読みません。したがって我々のシェイクスピアは、書かれた当時に読まれたシェイクスピアよりずっと豊かなんです。
自分ががんばって学び、知識が先鋭になるほど、気づくことのできる楽しさが増えます。知識が先鋭にならなければ、気づくことのできない楽しさがあります。

他人に伝えることのできない楽しさです。先述の記事からは、楽しさの一端を私も感じることができましたが、研究員の皆さんが感じたそれと比べれば、相当に小さいものでしょう。もはや私には想像もできません。それに、研究員さんどうしでも、すでに興味深いと思われた個所が異なっているのです。美しいことです。

当エントリでは、大きく二つの話題について書きました。
がんばってもの作りをする話と、がんばって学ぶ話です。

似ているような気がします。


終わりに


書籍『ψの悲劇 The Tragedy of ψ』(森 博嗣)にありました。
警察はさ、上から見た映像を見ているつもりなんだけれど、それは、バーチャルなんだよ。処理されているだけ。そういうのに頼っているってことが、古い頭の奴らにはわかってない。ちょっと新しいものがあったらさ、便利だ、これからはこの技術だって、飛びつくだけ。失われたものに気づかない。そんなふうだから、あちこちで人災ばっか山のように勃発するわけだ。本当にデジタルを知っている者はね、この世界を過信しない。もっとさ、自分の腕を信じてる。
他人に伝えることのできない、自分なりの楽しさがあるというのはよいものです。地味で泥臭い、学びの先にあります。現実のようなきらめきが、奇蹟の中にあります。どんな学びであっても、自分なりにやっていくことができるのに違いありません。

自分を信じているということの、具体的な様相だと思います。

2020年4月19日日曜日

ポメラを十二年使って、僕が考えたこと

チューリングは一度母親に軍関係の研究をしているとだけ話したことがあった。それを聞かされた母親は、政府の仕事をしているというのに、相変わらず身なりに無頓着で髪もぼさぼさな息子にがっかりしただけだった。
『暗号解読(上)』(サイモン・シン 著, 青木 薫 訳)


キングジム社のポメラに、DM30という機種があります。2020年4月現在、発売日としては最新の機種です。

DM30|デジタルメモ「ポメラ」|キングジム

久しぶりに公式ページを見たところ、販売終了した旨の宣言がありました。以後は、販売店に残っている在庫が購入できるのみとなるのでしょう。

DM30は、2018年6月に発売されました。発売と同時に、飛びついて購入したのを覚えています。以来、使い続けており、何一つ不満はありません。最高の、書くための道具です。

ポメラシリーズには、DM200という機種もあります。

DM200|デジタルメモ「ポメラ」|キングジム

2016年10月の発売です。DM200は、2020年4月現在、メーカとしても販売を続けているようです。DM200の方が先に発売していたにもかかわらず、です。長く売れ続けているということかと思います。

しかし、DM30は本当に素晴らしい道具です。私は、二年近く使い続けている、おそらく数少ないユーザになるのでしょう。DM30の素晴らしさは、私は、二年近く使い続けないと感得できないのではないかと思います。 日に日に、DM30を素晴らしいと思う度合いが増しているように感じます。今まで気づかなかったことに気づくようになる、ということは、ほとんど、生きることのすべてです。

DM30で文章を書くことは、PCで文章を書くことでも、手書きで文章を書くことでもありません。DM30で文章を書くこととしか言いようがありません。強いて言えば、ポメラで文章を書く、でしょうか。

極端なことを言えば、DM200で文章を書くことは、ポメラで文章を書くことではありません。PCで文章を書いているのに近いと言ってよいでしょう。それが便利な場面は、もちろんたくさんあります。DM30とDM200と、いずれも私はずっと使い続けています。

DM30とDM200とで文章を書く体験は、それぞれまるで違ったものなのです。比較できるものではありません。

DM30の販売が終了してしまって、この感動を理解できる人が限られてしまうのは残念ではあります。でも、思えばポメラの歴史は、一部の人の熱烈な支持から始まったのでした。

「ポメラ」開発担当者インタビュー | POMERA 10TH ANNIVERSARY | ファイルとテプラのキングジム

これでよかったのかもしれません。

私も身なりには無頓着な方です。

DM10から、2008年に始まったポメラの歴史は、途中、DM100、DM200という突然変異を挟みながら、素晴らしく続いてきました。DM30はすでに、私の想像を超えた最高傑作です。

DM30への進化は、私には想像もつかないものでした。また次に、想像もつかない進化があるのでしょうか。

あっても、なくても、私はポメラを使います。


終わりに


DM100、DM200という突然変異たちも、私は大好きです。

誰にとっても便利で、素晴らしい、書くための道具です。DM200で書くことはポメラで書くことではない、とはさすがに言いすぎたものの、改めて私が語ることもないほどよい道具なのは、間違いありません。きっと多くの方がお持ちなのでしょうし、いうなれば、私が冷蔵庫や電子レンジの便利さについて語ることがないのと同じです。

もう手に入らなくなってしまう、DM30のことを語っておきたいと思いました。
DM30の電子ペーパーディスプレイが、セピア色に見えるようです。


こちらのクルマは、なかなか調子が出ないし、古い部品は交換しないといけないし、掃除も大変、オイルも遠くから取り寄せる必要があって、もの凄く面倒です。でも、私はこちらの方が好きです。
『キャサリンはどのように子供を産んだのか? How Did Catherine Cooper Have a Child?』(森 博嗣)

2020年4月12日日曜日

10コの質問に回答します

こちらの記事を読みました。

【ブロガー企画】10コの質問 参加者募集のお知らせ #ブロガー10クエ - 涯てお茶

私も参加させていただきます。



お名前

Hibiki Kurosawa です。
いつの間にか、当ブログの上から自分の名前がなくなっていました。昔は確かにあったはずです。気にしないことにします。



好きな色

LAMY のクリスタルインク、ペリドットです。

ラミー インク&リフィル | ラミー・LAMY

LAMY aion に入れて使っています。



あなたにとって「書く」とはなんですか

人にわかるように書いてみて、はじめて考えているという感覚があります。抽象的なイメージや映像などではなく、文字や文章として、私はものを考えているのだと思います。個人差のあるところでしょう。

自分が書いたものには、確かに自分が考えたことだという実感があります。手触りのようなものが感じられるからです。

自分が考えたことを、確かに自分が考えたのだと信じられるということがあります。現代ではまだ、ナチュラルな人間にのみ可能な、生命の躍動です。



今利用しているブログサービスを選んだ理由

Google Blogger です。Google アカウントを作っていたので、自然に始めることができたことが一つです。ブログのURL「~~.blogspot.com」が格好良いなと思ったのもあります。

何年前のことでしたでしょうか、ブログのURLが突然「.jp」に変えられたことがありました。あまり格好良くないなと思い、自分で書くときには「.com」にしていました。「.com」にアクセスしても、「.jp」にリダイレクトされていたのです。

知らぬ間に「.com」に戻っています。不評だったのでしょうか。



ブロガーとして気をつけていること

正しい文法、文体で書くことです。変な日本語を発明したりせず、急に変な独り言が登場したりさせず、書くようにしています。

読みにくいからです。



ブログを書く理由

本当に、ブログというのはいいものです。時間をかけて、ブログを書くこと、読むことでしか到達することのできない何かを、私はずっと信じています。



好きなブログ

好きなブログは、毎年11月に書くことにしています。
気づけば長く続けてきました。



カバンの中身

必ずしもカバンの中身というわけではありませんが、書くための道具があります。

LAMY CP1
LAMY aion
Faber-Castell ambition
トラベラーズノート(茶・レギュラーサイズ)
情報カード(名刺サイズ)
KINGJIM POMERA DM30
KINGJIM POMERA DM200

書くための道具が好きです。収集ではなくて、本当に書くための道具として使っているからです。
トラベラーズノートには、こちらをセットしています。

毛糸のジッパーケース、スタンダードエディション(パステル) | Notebookers.jp

素晴らしいものを購入させていただきました。



おすすめのお酒のおつまみ

お酒のおつまみというのは、どうしてこうも難しいといいますか、正解がないものなのでしょう。人によってまるで違いますし、時間や、場所によっても違います。ひょっとすると、お酒についての方が、まだ議論の余地が少ないのかもしれません。おつまみなしでお酒を飲むのが理想のような気もしますが、私はそこまで至っていません。

かように難しいおつまみでも、質問には答えなくてはなりません。

焼き餃子です。



最近干からびているKyrieへのアドバイス

いつも、ブログを楽しく読ませていただいています。
陰ながら応援しております。


終わりに


ペペロンチーノだったかもしれません。

2020年3月11日水曜日

優しい青

いつの頃からか、今を信じることを知るようになりました。過去と未来とを、忘れずに胸に秘めたままで、それでも今を信じます。

西田幾多郎先生の哲学に出会ったからかもしれません。私が、生命をそのように理解したからかもしれません。過去と未来がすべて合わさったところに今があって、少しずつ動いていってしまうのが、生命の躍動です。

優しさというものの、一つの形のようでもあります。何かを変えようとするのではなく、今を信じます。
過去も未来もあって、今日も生きていられます。何かをわかろうとするのではなく、優しくいられます。

For Tracy Hyde の楽曲「繋ぐ日の青」の歌詞にありました。
変わろうとも変えようともわかろうともわからせようともせず、
見つめていたいよ。
それじゃダメかな?
それだけで嬉しくなって、私は、躍動に向かって心の青を繋ぎます。
今日は優しさを繋ぐ日です。

2020年2月24日月曜日

ときめきトポロジー

昔から、シンセサイザーという楽器が好きです。人は変わるものだと聞きますが、なぜでしょうか、本当にずっと変わらずに好きです。

好きな度合いが減らないこともそうですし、シンセサイザーを好きな感じ、感情とか意図が、ずっと変わらずにいます。本当にグッとくるものがあります。

楽器ですから、音楽を演奏したり、作曲したりするためにあるものです。私は昔から、演奏や作曲は別に好きでないような気がしています。シンセサイザーが好きだから、しかたなく演奏をしているようです。

プラモデルを好きというのに近いかもしれません。でも、いざとなったら演奏もできるところも好きで、プラモデルとは違うかもしれません。

書籍『モモ』(ミヒャエル・エンデ 著, 大島 かおり 訳)に、次のような一節がありました。
もちろんわけのわからぬことばかりですが、よろこびに酔いしれた人というのはそういうものです。そしてふたりはなんどもだきあい、そばをとおりかかった人びとも立ちどまって、いっしょに泣き笑い、よろこびを分かちあいました。いまではだれにもじゅうぶんにその時間があるからです。
訳のわからぬことですが、好きなものに酔いしれた人というのはそういうものです。

すべて読み終えることができないのに、本をたくさん買ってくるのが好きだというのに似ているかもしれません。私はあまりしませんが、気持ちはわかります。

書きたい文字があるわけでもないのに、万年筆が好きだというのに似ているかもしれません。万年筆を使いたいために、しかたなく文字を書いているところがあります。

書きたい文章があるわけでもないのに、キングジムのポメラが好きだというのに似ているかもしれません。ポメラを使いたいために、しかたなく文章を書いているところがあります。

食事をしたいわけでもないのに、吉野家の牛丼が好きだというのに似ているかもしれません。吉野家の牛丼は本当にすごく好きで、具体的にいうと、牛丼よりも吉野家の牛丼が好きです。なんなら、三度の飯より吉野家の牛丼が好きです。

仕事から家に帰って「ご飯食べた?」と聞かれたとき、吉野家の牛丼を食べて帰ってきたときには「食べていない」または「吉野家の牛丼しか食べていない」と答えます。それで、家で晩ご飯を食べます。

各々が勝手に感じているはずなのに、普遍な、似た感情があります。

音楽とか、文房具とか、電子機器とか、食べ物とか、私にも好きなものはいろいろとあります。いろいろとあるようで、実際に好きな様子は似ているようです。他所から押しつけられたカテゴリの中にいると、気づかないことがあります。

本当は一つのことが好きなのでしょう。

一つのこととは何なのでしょうか。一つのことなら、一つの言葉で呼べないものなのでしょうか。

こちらの記事を読みました。

パソコン音楽クラブの部活感の秘密。作家性や主張より大事なこと - インタビュー : CINRA.NET

次のような一節があります。
柴田:アルバムの重要な要素として「ときめき」みたいなものがあって。大学生の頃、よくふたりで真夜中に自転車で郊外から大阪の中心部に行ってたんです。
そういうときに、日中は人がたくさんいる街もすごく閑散としていて、自分たちだけが取り残されたみたいな気持ちになって。なんでもない工事の立て看板とかガソリンスタンドの電光掲示とか、そういうものに急にときめいてしまうということがよくあったんです。
西山:ただ車がガラガラの道を通過していく様子とか、人がいないところでの信号の変化とか、ひと部屋だけ明かりが点いているマンションとか……そういう普通のことが非日常感のなかで特別に見えてくる瞬間というか。
夜、あてどなく道を歩いていて、ガラガラの道を車が走り抜けていく様子や、誰もいないのに歩行者用信号が点滅して赤に変わるところを見て、ときめきのようなものを感じることがあります。本当によくわかります。 それから、彼らの音楽アルバムを聴いて、同じく、ときめきのようなものを私は感じました。

雑誌『キーボード・マガジン 2019年 AUTUMN』(リットー・ミュージック)では、KREVAさんのインタビューを読みました。
このモデルはコンプが付いてるんですけど、楽器屋で "コンプが付いてるの(Prologue-16)と付いてないの(Prologue-8)何が違うんですか?" って店員の女の子に聞いたら、"コンプをかけると、ベースがグッとくるんですよね" って言われて、"買います!" ってすぐ買ってきたんです(笑)。それで、スタジオで思いっきりコンプをかけてベースを鳴らしたら、本当にグッときたんですよ。すげぇと思って。
グッとくることを、店員の女の子でも、一流のアーティストでも同じように感じたようです。都会の夜の街のときめきと、音楽アルバムに同じ感じがあることを、アーティストも、私も同じように感じました。

だから、個人の勝手な感覚ではないのだと思います。普遍のものです。人間にプリミティブにある感情で、ごく近い将来の人工的な知性も、同じく有しているはずです。

感じ方は人それぞれとよく言いますが、人それぞれではありません。みんなにあるのです。

みんなそうなのに、名前をうまくつけられません。ときめきのようなもので、共有できません。意味がなかったからでしょうか。みんなに同じものがあっても、各々が試行錯誤で感じられたことが、畢竟、すべてです。

みんなに普遍にあるものなのに、かように説明の手間がかかるのは、不思議なことです。

書籍『本はどう読むか』(清水 幾太郎)にありました。
しかし、現に存在する物体でないもの、眼に見えないもの、過去のこと、未来のこと、これらのものについては、テレビは映像を与えることはできない。
映像を与えることができないものを、一つの言葉で呼ぶのは困難です。ときめきのようなものとは、現に存在する物体でなく、眼に見えず、過去のことであり、未来のことであり、そのすべてなのでしょう。

でも、文章をたくさん書いた先に、表現することができます。音楽アルバム一枚を使って、表現することができます。

感情とか意図とは、もともとそういうものでした。位相幾何的で、統計熱力学的で、絶対矛盾的自己同一的です。一つの言葉で呼べなくても、ある程度の長さによって、表現することができます。

誰にも、十分にその時間があるはずだと、私は信じています。


終わりに


私は三度の飯より吉野家の牛丼が好きですが、電気グルーヴの石野卓球さんは、インタビューで次のように話されていました。『電気グルーヴのSound & Recording ~PRODUCTION INTERVIEWS 1992-2019』(サウンド&レコーディング・マガジン編集部)からです。
本物のテクノっていう言い方はおかしいけど、自分の思うテクノっていうのはポップ・ミュージックの1ジャンルとしてはくくれる感じじゃないんですよ。もっと汎用的だし、自分の中では音楽ですらない。
各々が勝手に感じているはずなのに、普遍な、似た感情があります。

表現するためにはある程度の長さがかかるのに、感情という、一つの言葉で呼べるのはすごいことです。きっと、一つの言葉で呼べているようで、呼べておらず、ある程度の長さが必要なようで、必要でないのでしょう。

訳のわからぬことばかりですが、好きなものに酔いしれた人というのはそういうものです。