2013年6月18日火曜日

未研究とバサロ

Clip to Evernote
書籍『本を読む本』に、次のような文章があります。

『本を読む本』(J・モーティマー・アドラー、V・チャールズ・ドーレン)
このように、一般に読書の手順は、ちょうど商取引の逆になる。
読書において期待される手順と商取引とを比較し、それらが逆だと言います。非常に興味を引かれる文章です。

細かく見てみましょう。同書は続けます。
商取引では、条件がわかったうえで折り合いをつけるのがふつうだが、
話の都合上、引用を途中で切らせていただきます。

折り合いをつけることについては、同書で多くの紙幅を割いて扱われていますので、この場で厳密な解説に至ることは難しいのでしょう。本文中の言葉を借りるなら、「使われている言葉の意味について、著者と読者のあいだに、ある了解を成立させること」となります。

同書にとっては大変に重要な概念ですが、本エントリではこの程度にとどめておきます。

すると、ここで述べられていることは次のように読みとれます。
すなわち、商取引においては先に何かの条件が存在し、その後で折り合いをつける手続きがなされるわけです。より具体的には、ものを買う際に、買い手は商品やその値段、品質の情報をまずは手に入れ、その上で売り物や売り手の様々な立場を了解できるということになるでしょうか。

ここまで、商取引についての理解です。
先ほど途中で切られた引用文は、このように続けられます。
本を読む場合には、読者はまず著者と折り合いをつけ、そのうえで条件、すなわち著者の命題や判断をさがす。
商取引のときとは反対に、読者は先に著者の言葉遣いを了解します。
その後で、著者の命題や主張を見つけだして理解し、読者当人にとって有益だとか、興味深いとか、実際的な評価を下すにいたるのです。

以上が、商取引と読書とを対比させた見方です。
どちらも、無理に特殊なケースを出さない限り、間違いのないことでしょう。商品の様子を見ずに様々なものの立場を了解できることはありませんし、著者の言葉遣いを了解せずにその主張を把握することはできないわけです。

そして、引用してきたような指摘がわざわざなされるのですから、素朴な日常生活においては、商取引の手順の方がより自然であると言えるはずです。
読書の手順では、その主張の内容も判断できないうちから、つまり、具体的なところはさっぱりわからないうちから、えいっと著者を受け入れるわけですので、なるほど確からしいことです。

この、読書の手順のような物事のとらえ方は、私が大切にしたいと思う発想のひとつです。
表現を変えて繰り返すと、中身が曖昧で不明瞭でも、いったん信じて受け入れてみようとする態度のことです。

『羽生善治と現代』との書籍に、関連する内容がありました。

中公文庫<br> 羽生善治と現代 - だれにも見えない未来をつくる
『羽生善治と現代』(梅田望夫)
※画像は私が購入した紀伊國屋書店ウェブストアのものです

著者の梅田さんと、羽生さんが対談をしている場面です。最近の十年ほど、中盤以降でゴチャゴチャした将棋になることが多い、との話題になったところからです。
引用いたします。
梅田 この十年では特に、本当に未知の局面で、最善手、またはそれに近い手を思いつける能力のある人が有利になったということなんでしょうか?
ゴチャゴチャした将棋に関する問いかけです。
将棋が、指すたびに未知の局面に至ってしまうなら、それぞれで個別に思考を回転させて良い手を思いつける人が強いのか、と尋ねています。
基本的な将棋の力が重要になってきたのか、という質問だと解釈してよいかと思います。

羽生さんから戻ってきたのは、問いより一つ大きな枠組みでの回答でした。
羽生 いや……やっぱりその、いかに曖昧さに耐えられるか、ということだと思っているんですよ。曖昧模糊さ、いい加減さを前に、どれだけ普通でいられるか、ということだと思うんです。
毎回の曖昧な局面で何か思いつくとかの前に、その局面を受け入れて、普通にしていられるかどうかが大事だと言われるのです。
なるほどと思いました。これが現場の第一線で戦っている人の実感なんだ、とも思いました。

同書からは、もう一つご紹介したいお話があります。

先の引用とはまた別の機会で、梅田さんと羽生さんが対談している場面のことです。
そこで、「ひたすらバサロ泳法の練習をしている」との表現が出てきました。バサロ泳法とは、競泳で、スタートしたときに潜ったまますいすいと進むときの泳ぎのことだそうです。

言及の内容を見てみます。
つまり、バサロスタートで潜行して一気に進むと、浮き上がったときには目指すゴールまでの残り距離が縮まっているから、そこからでは追いつけない。
これはすなわち、競泳であるにも関わらず、主眼のはずの泳ぎが始まるときにはもう勝負がついてしまっている、とのことを言われています。
羽生さんはそれを、将棋の序盤の研究ばかりが進められることと重ね合わせます。
序盤の研究を進めるというのは、ひたすらこのバサロ泳法の練習をしているようなものです。
同書はここから、別のトピックに話が及んでいきます。
他方で私はそれを、曖昧さに耐えることという文脈で理解しました。

ひたすらバサロ泳法の練習をすることは、確かに良いのかもしれません。たぶん、すぐに結果につながってくるのだと想像できますし、ある程度までなら最強と言えそうな戦略です。

ですが、そこでは泳ぐ力が身につくことはないはずです。

ふとした拍子に研究したことのない局面に至ってしまったら、問われるのは泳ぐ力の方です。
曖昧さに直面してしまったら、必要なのはそれでも普通でいられることです。

泳ぐ力を訓練する方が、バサロ泳法の練習よりもメリットが見えにくいのでしょう。
しかし、いったんえいっと曖昧さを受け入れてしまって、泳ぐ力を高めることに注力するほうが嬉しい体験ができるような気がします。少なくとも、私はそうありたいと思っています。


終わりに


『羽生善治と現代』、大変良い本でした。大いにお勧めです。

あと、本エントリのタイトルは、ロックバンド「Phantasmagoria」の「未完成とギルド」という楽曲に影響されています。
内容とは関係ありません。