2013年6月23日日曜日

サービスエリアに入る

Clip to Evernote
こちらの記事を読みました。

R-style » 「遠出」のための地図

記事の中ほどに、興味深い一文があります。引用いたします。
私は「教養」という言葉を聞くと、この全国地図のイメージが浮かんできます。
「スタート地点では、全国地図は大きな力を発揮する」と銘打ってつづられた文脈での一節でした。ずっと地図について述べられていた文脈でしたので、不意に教養という言葉が現れてきたのは驚くべきことでしょう。
少なからず私は驚き、前後の文章を幾度か読み返すこととなりました。

ところが、前後の文章のみならず記事全体を読み直してみても、教養について、再び言及されることはありませんでした。地図に関する話題を取り扱った記事ですので、確かに不思議ではないことです。

そこで本エントリでは、私なりに全国地図と教養について考えてみようと思います。

まずは、全国地図の立場を明らかにしておきます。
この文脈において、全国地図は遠出のときに役に立つものです。進んでいる方向が想定通りであることに、あるいはそうでないことに気づかせてくれるという機能を持ちます。
全国地図があれば道に迷わなかったり、正しい方向に進めたりといったことではないのでしょう。想定通りであることと正しいことは、基本的に別の発想のもとにあるのです。

しかし、自分が想定と異なる方向に進んでいるとき、それに気づく可能性をもたらしてくれるわけです。

もうひとつ、共有したい前提があります。全国地図と教養が、同じスタンスを有していることです。
特に付け加えるところはありません。この話はもともとそこから出発しており、前提についての議論は実り多いものにならないのは世の常なのです。
(私が世間知らずである可能性もあります。)

強調したいのは、全国地図が遠出のためのものだということです。進んでいる方向が想定通りかどうかを判定するのは、それが遠出である場合のことです。

このことと、二つめに掲げた前提を重ねて考えてみます。全国地図と教養とが同じスタンスであることです。
すると、全国地図が遠出に役立つなら、教養が役立つのはいかなる場面になるのでしょうか。

本エントリの冒頭で、教養と全国地図について考えてみます、と書きました。それが、このような疑問に帰着するわけです。
すなわち、教養にとっての遠出とは何か、です。

ひとつ、思い当たる節があります。書籍『羽生善治と現代』にあったエピソードです。

中公文庫<br> 羽生善治と現代 - だれにも見えない未来をつくる
『羽生善治と現代』(梅田望夫)

ここには、プロ棋士の羽生さんと行方さんが登場します。
次に引用するのは、ある対局で羽生さんが指した、☗5三歩という一手について羽生さん自身が語った言葉です。
「手駒に金銀桂を持ちながら先手に直接的な有効手段がないという不思議な状況なんです。それで発想を少し変え、こっちも有効な手はないけれど、そっちもないでしょうということで☗5三歩と打ったんです」
その意味するところを詳細に理解するのは、将棋の知識も必要になり大変です。さしあたって「こっちも有効な手はないけれど、そっちもないでしょう」の部分を押さえておいていただければと思います。

続いて、それを評した行方さんの言葉です。
この局面は先手が少し良いけれど、具体的にどう良くすればいいかがわからない局面です。しかも、実際に具体的に良くしていく手順がない。
まずは局面の認識についてです。どちらが良いとも悪いとも言い切れない局面であるようです。
行方さんは続けます。
でもそこで、こんなに激しい将棋を指しているさなかで、この局面がそういう両者が手を出しにくい「不思議な状況である」と判断できるところが凄いんです。そんな客観的な判断が、ここにきてできるなんて……。
かなり激しい将棋が続いた後の局面で、今は不思議な状況になった、などと客観的な判断が下せることが凄いと言われます。
そして、次のような指摘に至ります。
羽生さんの将棋観が出た手とも言えますね。激しい流れから一転、流れを変えるような意味のわからない手を指して、一手で局面をまったく違うところに持っていってしまう。
述べられている「羽生さんの将棋観」については、引用した範囲では正確に語られていませんので、できれば同書を当たっていただきたいと思います。
私が言及したいのは、激しくぶつかり合っている最中に、ふと意味のわからないような手を指すという感覚のことです。

本エントリの上の方で、教養にとっての遠出とは何か、との疑問を掲げました。
私はここに、その回答を見ます。

ふと意味のわからない手を指す感覚、との言葉で代表できるような独特の思想があります。私の中では、即物的でないとか、直接的でないとか、そういった意味をしています。

先に引用した羽生さんの☗5三歩は、振り返ってみれば、対局のゆくえを大きく分けた重要な一手だったそうです。それと同じように、ふと意味のわからない手を指す感覚が必要になることが、棋士でない人にも様々な場面であろうかと思います。

そんなときに、教養が役に立つはずです。

教養も、その性質からしてあまり直接的でないと言えるでしょう。何に役立つかと問われても、答えにくい類のものです。
だからこそなのでしょうか、意味のわからない手が必要な場面で役に立つわけです。

本エントリ冒頭の言葉でまとめ直すなら、次のようになります。
すなわち、全国地図が役に立つのは遠出の場面であり、教養が役に立つのは直接的でない場面だというわけです。

思えば、遠出にも、直接的でない感覚を持ち出すことはあります。
それは、次に踏み出す一歩が、必ずしも目的地の方角を向いていないためです。サービスエリアに入ったり、おみやげ屋さんに立ち寄ったりする一歩があるわけです。

そんな直接的でない一歩も含めて、遠出です。一歩が大事なのは、どこの世界も一緒なのでしょう。一歩千金です。


終わりに


「☗」という記号があることを、初めて知りました。
どの環境でも正しく表示されるのか、不安です。