2014年9月15日月曜日

確認は仮設説まで

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要素を分けることは、補助線を引くような感覚になるのかもしれません。現実の世界にはない線を仮設することです。

書籍『動的平衡ダイアローグ』(福岡伸一)には、要素を分けることと、科学の仕事についてのお話があります。
引用いたします。
科学は、対象を要素に分けるところからスタートします。科学では、それをしないと対象を理解したことにはならない。でも、現実の世界はもともと切れ目なくつながっているんです。
理解するために対象を分割するものの、それは現実とは違っているといいます。

科学には限らないことでしょう。

ここに何かの情報源があったとします。
人はそれを、観測して、解釈することができます。人が情報を確認するという手続きを考えたとき、観測と解釈とが、適当な割合ずつを占めているように思います。

情報を確認する手続きなるものについて、決めておきます。
それは値を持つもので、最大値は、情報を完全に正確に確認した状態だとします。
ふつう、私たちは最大値を得ることができません。いつも、物事を完全に正確に確認できるように努力しているのが、私たちであるわけです。

無理のない決め方かと思います。

情報の確認の量を観測と解釈とが決めることになりますので、次のような二変数関数を想定できます。

・引数1……観測の量
・引数2……解釈の量
・戻り値……情報の確認の量
・戻り値の最大値……完全に正確に情報を確認した状態

最大値は得られなくとも、戻り値をできるだけ大きくすることが目標です。

ちなみにこの戻り値は、状況によってさまざまな呼ばれ方をします。
理解している、確からしい、説得力がある、などです。

理論としては、観測と解釈には、任意の正の値を投入できます。解釈も、観測も、どれほど手間をかけても構わないわけです。

現実には、かけられる手間の制約があります。
観測と解釈の和をあまりに大きくすることはできません。また、観測する割合が大きければ、解釈のそれは小さくなるはずです。反対も同様です。

投入する観測と解釈の量について、採りたい方針を考えることとしましょう。
それぞれの特徴を探ります。

まずは解釈の方です。
解釈の便利な点は、伝達と蓄積ができるところです。

書籍『無限の始まり』(デイヴィッド・ドイッチュ)には、次のような話題があります。
著者のドイッチュさんが、大学院生だったころのお話です。
仲間の学生の何人かが研究の様子を見せてくれた。彼らは銀河団を、何と顕微鏡越しに観測していたのである。
星々を顕微鏡で見るといいます。
天文学者たちは当時、パロマ天文台掃天観測で撮影された写真を調べるのに、こうした方法を用いていたのだ。使っていた写真コレクションは、一八七四枚のガラス乾板のネガからなり、恒星や銀河は黒い形に、背景の宇宙空間は白く写っている。
空を写した写真を見ていたようです。

このとき、観測するのはレンズに映る白と黒です。
解釈は、それが顕微鏡で拡大されていること、元は天文台で撮影した写真であること、現像すると恒星が黒く見えること、そもそもある方角の夜空を写した写真であること、などです。

観測と解釈を共に使うことで、顕微鏡に星空を見ることができます。

さて、新しい写真を取り出すたびに、観測は一からやり直すことになるでしょうが、解釈は違います。一度でも解釈を得ていれば、使い回すことができます。
どこかで解釈に誤りがあれば修正できますし、人から教えてもらうこともできます。観測にはどちらも不可能です。

観測の特徴は何になるでしょうか。

書籍『脳の中の天使』(V・S・ラマチャンドラン)には、想像を絶する観測をする人たちのエピソードが多くあります。
脳梗塞になったイングランドのジョンさんは、目で見た対象物を、部分は見えているのに、全体としては認識できなくなってしまったそうです。

奥さんの顔も、鏡に映った自分の顔も、わからないといいます。
「それが自分だということはわかります」と彼は言った。「私がウインクすればウインクするし、動けば動くので。自分が鏡に映っているのはあきらかです。でも自分のようには見えないのです」
極端な例でしょうか。
しかし、これが観測です。当事者が観測したことが正解であるわけです。

もう一つ、観測と解釈とで、大きなトピックがあります。これらが、対称の変数でないことです。

投入できる観測の量には、物理法則とコストの点に、強い制約があります。遠すぎて見えないことも、小さすぎて聞こえないこともありますし、いつまでも見続けるわけにもいきません。
そのわりに、得られる戻り値はさほど大きくない量になります。これも物理法則のためです。人の視野や聞き分けられる音色には、限りがあるのです。

解釈はそうではありません。別に、解釈は光の速さで伝わっていくものではないわけですし、物理法則に制約を受けることもなく、自由に大きい量を扱うことができます。

ここまで、観測と解釈について考えてきました。どうやら、解釈の方が具合の良さそうな変数です。
解釈が多い状況の方を信用するのが安全そうですし、自分でも、解釈を多くするように心がけたいと思います。

直感に反する気づきかもしれません。

自分の目で見た、当事者である、といった観測を意味する言葉が、情報の正確さや説得力にとって、とりたててプラスにならないということだからです。マイナスの影響すらあり得ます。
解釈を多くとっていることの方が、ずっと効果があります。

当事者でなくとも、慎重に解釈を増やしている人であれば、説得力を感じるべきなのです。

とはいえ、情報を確認する手続きを、観測と解釈とに、簡単に分けてしまうことにも注意が要ります。現実にない線による、仮説かもしれません。

わかったことは、解釈が多い方が良さそうであることまでです。わからないことは、観測と解釈の間に引いた線のことです。

どちらも合わせて確認しておきます。


終わりに


要素を分割することと、線を引くということを、同じ意味の言葉として断りなく使ってしまいました。 少し、気になっています。