2014年9月30日火曜日

極端よりも少なめに

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書籍『エピゲノムと生命』(太田邦史)に、人間の男女の出生比率についてのお話がありました。
人間の男女の出生比率は、人種や時代によらず、大体女児一〇〇に対して、男児が一〇四~一〇七ぐらいの割合になっています。
男児の割合が半分よりやや多くなるそうです。

結果はともあれ、統計として興味深いところがあります。前半の部分です。
人種や時代によらず、とまで言い切れるような統計を目にすることは、なかなかありません。多くのサンプルを調べていることが想像できます。信頼できそうな結果です。

統計というのは、サンプルが少ない方が、特殊で極端な結果になります。

統計の基本ではありますが、『ブラック・スワン』(ナシーム・ニコラス・タレブ)から引用させていただいて、確認しておきます。
あなたが住んでいる街には病院が二つあるとする。一つは大きく、もう一つは小さい。二つの病院のうち一方を選んで、ある日に生まれた子どもを調べてみると、六〇%男の子だった。選んだのはどちらの病院だった可能性が高いか?
長期的に見れば、男児がやや多いくらいになるはずです。
六〇%とは、想定しない結果といえるでしょう。そうした極端な事実は、サンプルの少ないときに起きやすくなります。
これは統計学のほんの基本だ。小さいサンプルよりも大きいサンプルのほうが安定していて、長期的な平均値からの乖離は小さい。
基本であり、大変に重要なことです。統計のようなものを読むときには、いつも注意されたいことです。

ところで、Google+ のポストで、次のような呼びかけがありました。

https://plus.google.com/104476632404018889675/posts/QdjwrBZSiLm
【もう一度、知的生産の技術を読み返す】という企画はどうでしょうか。今再読してみての感想を交換する的な。
書籍『知的生産の技術』(梅棹忠夫)を再読し、改めて感想を述べよう、とのことです。

同書には複数の、多重な話題があります。時と場合によって、さまざまに読むことができるはずです。
できれば、著者の梅棹さんの基本的な方針を反映するところを、よく読みたいものです。

意識してみると、梅棹さんは、情報の形式や規格化についてをよく気にしておられるように思えました。「きりぬきと規格化」と掲げられた章すらあります。

なぜ、形式なのでしょうか。思えば、形式は生産とは関係ないはずです。

反射的な回答はあります。
形式がそろっている方が、そのものを取り扱いやすいためでしょう。敷き詰めることも、積み上げることも、並べ替えることもたやすくなります。

しかし、取り扱いのしやすさに関しては、反射的で抽象の説明に終始しておきます。

それとは別の点で、確認しておきたいことがあります。

同書が、あくまで個人に向けて書かれていることを前提とします。「はじめに」から引かせていただき、確認しておきましょう。
知的生産の技術の公開をとなえながらも、この、知的作業の聖域性ないしは密室性という原則を、この本の全体をつらぬいてたもっていきたい。知的生産は、どこまでも個人においておこなわれるものである。
梅棹さんは、個人の知的生産に対する視点を持っておられるわけです。

先に確認しました通り、個人に関することだとサンプルが少なくなりますので、極端な現象が起きやすくなります。

個人を向いた知的生産は、この上なくサンプルの少ない状態です。常に、極端な事実を相手にしなければなりません。
このあたりに、形式を重視する理由があるような気がします。

私が取り上げたいのは、『知的生産の技術』の「日記と記録」の章です。
日記の形式を作ることについて、次のように述べられています。
日記は、人にみせるものではなく、自分のためにかくものだ。自分のためのものに技法も形式もあるものか。こういうかんがえ方もあろうが、そのかんがえは、二つの点でまちがっているとおもう。
二つの点とあります。ここでは、その一つめだけ取り上げることとさせてください。
自分のための日記に形式を決めることには、どのような意味があるのでしょうか。梅棹さんは続けます。
第一に、技法や形式の研究なしに、意味のある日記がかきつづけられるほどには、「自分」というものは、えらくないのがふつうである。
自分が偉くないから、形式を研究しておくのだといいます。

驚くべき指摘だろうと思います。
概要を想像しているだけでは決してたどり着かない、個人を向いた意見です。日記を書こうとしているのに、日記とはまるで関係のない、自分が偉いかどうかが問題になっているのです。
サンプルが少ないからこそ起きる、非常に極端な事実でしょう。

続きます。
いろんなくふうをかさねて、「自分」をなだめすかしつつ、あるいははげましつつ、日記というものは、かきつづけられるのである。
形式から離れていくということは、私たちに、より偉い個人であることを課します。
同じような構図を持つものは、世の中にたくさんあるようです。

そして、個人を相手にしている限り、極端な事実も取り扱わなければなりません。
事実が極端に流れていってしまうのを、形式を決めることでなんとか押しとどめようとするわけです。私が感じ取った、『知的生産の技術』の基本的な方針です。

とはいえ、どこまで極端に形式を押し付けてよいのかどうかは、議論の余地があります。梅棹さんが繰り返し述べられていることですので、かなりの程度はよいのだろうと思いますが、いかがでしょう。

極端よりも少なめに、半分よりやや多いくらいの割合がよいのかもしれません。


終わりに


本エントリ前半で、『ブラック・スワン』からのお話をご紹介しました。統計を読むときの、基本知識のひとつです。

ただし、同書の文脈は、教室ではそうした知識を身につけているのに、実践の場面で使えないことについてのものです。
当エントリからは読み取れませんでした。念のため、明示しておきます。