いくつか方向はあるでしょう。ひとつには、何となく広い意味で使っていた言葉を、考えて、狭く厳格な意味にするものがあります。
私はそれを、解体するという表現で理解しています。
言葉を解体して、厳格にするわけです。
こちらの記事を読みました。
R-style » 自然数と自然語
数学の言葉にある自然数から、自然語なるものを類推されています。
次のようにあります。
さて、ここからはあてもない思いつきと類推なんですが、「自然数」を言葉の世界に持ち込むことはできるでしょうか。つまり「自然語」というものは考えうるか、ということです。数学の言葉にある自然数は、その昔にペアノという人が考えたことを信じるなら、明解な定義があります。私は信じていますので、関連する議論はありません。
自然語については、同記事で次のように表現されています。
もし、そういうものが考えられると想定した場合、その言葉は
「私たちが直感的に扱える、実感を持って受け入れられる言葉」
ということになるでしょう。
具体的で、実体のある対象を指した言葉が、きっとそれです。実体のある対象を指すときに、自然語が用いられることになるようです。
実体があるとか、ないとかいうことは、気になるところです。冗談のようなといいますか、人を食ったような話題ではあります。
情報社会、情報化社会、などと耳にすることがあります。今より少し前の時代は実体のあるものを扱っていて、今からは実体のないものが大事だ、というお話のようです。
実体のあるものとないものとの違いは、話題の前提となっており、わかりにくいものではないようなのです。
梅棹忠夫さんが、外胚葉の時代といったことを述べられました。復習しておきます。
『情報の文明学』からです。
わたしはいま、人類の産業史の三段階を、農業の時代、工業の時代、精神産業の時代と名づけたが、さらにすすんで、この三つの時代の、生物学的意味をかんがえてみよう。梅棹さんは、人類の産業史を、三つの段階に分けて整理されました。
農業の時代、工業の時代、精神産業の時代です。この三つが順に、内胚葉産業、中胚葉産業、外胚葉産業、と生物学の言葉に対応します。
個人的には、内胚葉産業の時代の期間が長すぎること、同じく中胚葉産業の時代の期間が短すぎることが、気にかかるところではあります。
続く文章もご紹介いたします。
産業史を三つの段階に分けたことも重要ではあるものの、あまりにキャッチーであるために、続きが蔑ろにされているところがあるかもしれません。
引用いたします。
もとより、中胚葉産業たる工業の時代においても、内胚葉産業の農業はきえてなくならなかった。むしろそれは、工業的生産の基礎条件として存続したのである。
(中略)
ただ、あたらしい産業の進展につれて、ふるいものの相対的な重要さがへってゆくだけである。ひとつ前の段階は、次の段階の基礎条件として存続するということです。古いものと新しいものとは、共に存在しているわけです。
時代が変わったという言葉がありますが、そういうわけではないのでしょう。時代が増えただけなのです。
決して、外胚葉産業も、他の二つの時代も、いずれも大事だという話ではないはずです。円満で、平和な解釈ではありますが、思考は止まってしまいます。
梅棹さんが指摘されていることは、その反対だと思います。外胚葉産業の時代を考える上で、他のどの時代も重要なのは当たり前の前提として、単に土台としてしか機能していない部分を適切に分離し、影響の大きい部分、珍しい部分を抽出したいのです。
外胚葉産業を色づけするものを考えます。
梅棹さんはそれを情報と呼び、五感に訴えるものだとしました。私は、中胚葉産業の成果物と比較して、実在しないものと呼びたいと考えます。自然語で示すことのできないものです。
外胚葉産業の時代と、情報化社会なるものがつながりそうになってきました。
梅棹さんは、文字情報の話題を出されました。いわく、紙に文字が書かれることによって、情報は存在となることができたそうです。
やや、語弊があるでしょうか。紙に文字を書く行為と、情報と、存在との相関に、あまり触れられていないためでしょう。
情報が存在となる、との言葉は、情報が存在へ写像される、くらいにしておきたいところです。
混乱を招きながらも、得心する事実です。
情報は、外胚葉産業の主人公です。存在とは、中胚葉産業の言葉です。それらが共存しているための混乱です。
情報と存在とをわかりやすく見分けるためには、まるで性質が異なっている方が楽です。
しかし、外胚葉産業は、中胚葉を基礎にしているのでした。
混乱と引き換えに、情報が、存在を基礎としていることを表現できています。
情報のうち、存在を取り去ったものを議論したいところです。外胚葉産業を色づけするものです。
梅棹さんの用法に準じるということでもあります。
こうしていくと、情報化社会という言葉が不自然に思えてきます。
情報化社会の情報とは、どの程度、梅棹さんの用法に準じた情報なのでしょうか。外胚葉産業の時代と全く同じ意味をしていると考えてよいのでしょうか。
情報化社会に含まれる、余計な情報を解体しておきたいところです。
情報化社会が指すところの情報には、少なからず、プログラミングやソフトウェアを含んでいるように思います。
ソフトウェアというのは、外胚葉産業の成果物とは違います。中胚葉産業のそれです。
文字情報は、外胚葉産業に属するものとして説明しました。
文章を書くことと、ソースコードを書くこととはまるで違うというわけです。前者は外胚葉産業に、後者は中胚葉産業にある行為です。私の実感としても、少しも似ていないように思います。
プログラムは、プロセッサ、メモリ、入出力デバイスが連携して動作します。
プログラムが動作することは、回路に電圧がかかることです。プログラミングとは、最終的には電圧をかけることになります。
電圧とは、エネルギーを持った物理的な量であり、実在するものです。プロセッサ、メモリ、入出力デバイスとも、手にとって触ることのできる、実在するものです。
プログラミングとは、実在するものだけを扱う行為であるわけです。中胚葉産業に属するものに間違いありません。
歴史を振り返れば、よりわかりやすいかもしれません。
コンピュータとは、ほとんど部屋のようなものでした。プログラミングとは、配線コードを抜き差しすることでした。とても、外胚葉産業に属するものとは思えないかと思います。
コンピュータがプログラムを実行する基本的な仕組みは、ずっと変わっていません。その昔に、チューリングという人や、ノイマンという人がいろいろと考えてくれたおかげです。
情報化社会には、いわゆるプログラミングのようなものを含まなくてよさそうです。
得体の知れなかった情報化社会は、外胚葉産業の時代と同じような言葉として、理解してよいようです。安心しました。
自然語のメタファを継続するなら、素因数分解でしょうか。
解体されて、言葉が実在に近づいてきています。
しかし、解体するという言葉を、私は、何となく広い意味で使ってしまっています。
終わりに
エントリの中ほどに、珍しい部分を抽出したい、と書きました。
珍しい、との表現には違和感を持たれたかもしれません。
その昔、シャノンという人が考えた情報理論が念頭にあったためです。
また情報が出てきてしまいました。