2017年10月27日金曜日

記憶の海岸、無人島

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風立ちぬ、今は秋です。今日から私は、心の旅人です。
性格は明るいはずですが、世界を観察するとは、どういうことなのでしょう。

書籍『僕たちが何者でもなかった頃の話をしよう』(山中伸弥、羽生善治、是枝裕和、山極壽一、永田和宏)に、興味深い話題がありました。映画監督の、是枝裕和さんが講演された内容からです。

是枝さんは、カメラを持ち、映画を撮るようになり、疑問に感じたことがあるといわれます。いわく、「映像を制作すること、映画をつくることは自己表現なのか」とのことです。

続く言葉が、心に残ります。
もし自分の中から出てくる表現であるならば、カメラはなぜ自分へ向かわないのだろうか、と。
もっともではあります。自分でカメラを持った人にしか、たどり着けない問いでもあります。是枝さんは、自分の言葉で、問いに答えます。
映画というのは、決してつくり手である自分を撮るのではありません。僕はカメラの脇にいて、カメラは世界を向いている。世界を撮るんです。表現されるべきものは世界の側にある。
同書は、進行役の永田和宏さんとの対談に続きます。永田さんが、別のエピソードを紹介してくれます。
永田 講演でもうひとつ印象的だったのは、「映画は自己表現じゃない」という言葉です。詩人の谷川俊太郎も、「詩というのは、自分の内側を表現するのではない。世界の側にある驚きが詩になる」というようなことを言っています。是枝さんも、自己表現だったら、なぜカメラが自分に向かないんだと、おっしゃったのが新鮮な驚きでした。
詩人の谷川俊太郎さんの言葉とのことです。世界の側にある驚きが、詩になります。なんと綺麗な言葉でしょう。世界の側にある驚き、そのものです。

素朴に読むと、観察することについてが語られています。自分のことではなく、世界の方を向いて、よく見ようとすることです。

季節が秋になります。気温の違いを体感します。景色が変わることもあります。言葉にならない、さまざまなことが変わります。目を凝らせば、世界にある驚きを、読み取ることができるのかもしれません。
季節が冬になります。私は冬が苦手なので、人より、冬の期間が長くなります。思うより前から、冬は始まっていて、思うより後まで、冬は続きます。季節が冬になっているかどうか、観察しに出かけたことはありません。

それでも、確かに、私は季節の変化を感じます。世界の側に、表現されるべき驚きがあることもわかります。
詩や映画ではなく、私はブログを書きます。表現されるべき驚きがあったからです。カメラは自分を向きません。

詩人や映画監督は、季節が変わるからと、世界を見に出かけたりするのでしょうか。なんとなく、違和感があります。
素朴な観察では、ずいぶんと限られた視点で、世界に目を凝らすことになりそうです。詩を書かせるほどの驚きは、もっと、遍くあるはずです。

世界とは、思いも寄らないものです。意図して観察できるものなのでしょうか。世界の側にある驚きとは、目を凝らせば見つかるものなのでしょうか。

観察するというのは、素朴な動作ではないのかもしれません。

大瀧詠一さんというミュージシャンがいました。詩人と映画監督に、似ているところがあるようです。見ること、情報を受け取ることに関して、語るべきところのある方でした。書籍『街場の読書論』(内田樹)からです。
(前略)そのあとに一音聴いただけで、オーケストラの楽器構成が「わかる」という話をされたときに、今朝ほど新幹線の中で考えていたscanとreadの違いの話との符号に驚嘆したのである。
著者の内田さんが「新幹線の中で考えていた」という、scanとreadの話とは、こうです。
一つは「文字を画像情報として入力する作業」、一つは「入力した画像を意味として解読する作業」である。私たちが因習的に「読書」と呼んでいるのは二番目の工程のことである。
一つめの作業のことをscan、二つめをreadと、内田さんは表現されました。因習的に、二つめのreadのことだけを、なるほど私たちは読書と呼ぶようです。
しかし、実際には、画像情報が脳内に入力されていなければ、私たちは文字を読むことができない。
かくして、内田さんは、scanもreadも、読書であると言われます。文脈からは、ややもすると、scanこそが読書であると言わんばかりです。

大瀧詠一さんも、scanに自覚的な人であったようです。先の「一音聴いただけで、オーケストラの楽器構成が「わかる」」というところからも読み取れます。
世界をscanする人は、scanの結果を、いかにして解読するのでしょうか。readがあるはずです。画像情報を取り込んだ後の話です。

大瀧さんのエピソードがもう一つあります。
かつて「無人島レコード」のアンケートで、大瀧さんは無人島にはレコードではなく「レコード年鑑」を持っていくと答えたことがある。
著者の内田さんは評されます。いわく、大瀧さんは、観察しているのではなく、思い出しているのです。

思い出すことが、readに相当するようです。
谷川俊太郎さんの言葉に、似ているような気もします。

観察することには、ましてや、詩になるほどの驚きを抱いて観察することには、少しだけ素朴でない、実態があるようです。
世界を観察するのではなく、その中に入り込んで、経験しています。世界を観察するのではなく、思い出しています。

読書と同じです。思うより前から、読書は始まっていて、思うより後まで、読書は続きます。scanとreadです。思い出した記憶が、詩になります。

世界が思いも寄らないとは、そういうことなのでしょう。

そう、今しがた思い出しました。ずいぶんと寒くなりました。思うより早く、秋は終わってしまいます。
冬のリヴィエラ、男ってやつは、港を出てゆく船のようです。


終わりに


二曲とも、日本語が慎ましいところがよいと思います。いつの間にか、松本隆さんの話になっていました。