2014年11月25日火曜日

組み立て勝手ビュッフェ

読書することにそれなりの技術があるように、グラフィカルな広告やウェブページ、あるいはテレビを見ることにも、独特の技術はあります。
いずれも情報を受け取る対象ですので、考えてみれば不思議なことではありません。

こちらの記事を読みました。

日常に埋まる知的生産とその技術 ~あたらしい知的生産試論(5)~ | シゴタノ!

記事では、今後の社会で、知的生産の技術が意識されなくなるだろうと述べられています。現代で、グラフィカルな広告やテレビを見る技術が意識されないことに呼応するかもしれません。

知的生産や読書に関する技術の話題は、私も耳にしたことがあります。
テレビを見る技術とは、何のことでしょうか。

ホテルの朝食などで、ビュッフェ形式の食事に直面することがあります。自分で、任意の食べ物を取り分けてくる方式です。
座っていれば料理が運ばれてくるような形式と違います。面倒ではあるものの、食事と同時に、自分で組み立てる楽しさのようなものも味わうことができます。

ホテルの朝食では、食事が済んだ後にお会計をすることがありません。食事が完了したと判断すれば、勝手に席を立って部屋に戻ります。

難しい問題が一つ発生することになります。
すなわち、フロアで給仕されている方々が空席にある使用済み食器を見たときに、そこにいた人が一時的に席を立って別の料理を取りにいっているのか、それとも食事が完了して部屋に戻ったのか、区別がつかないことです。

非常に厄介です。ビュッフェが必ず内包してしまう困難です。

有名な解決策があります。
食事スペースへの入場時に、カードを受け取ります。食事中はそのカードをテーブルの上に置いておくことで、空席であっても、それは一時的に別の料理を取りにいっているだけであることを表明します。
カードは、食事を完了したときに返却します。カードのない空席は、食事の完了を示します。

大変に優れた施策です。
見分けたい状態は二通りで、カードで示すことのできる状態も二通りです。もれなく、だぶりなく、網羅しています。mutually exclusive and collectively exhaustive です。

ところが、問題は続きます。カードが、新たな問題を運んできてしまうのです。

カードには、目的に従い、次のような文言が書かれています。

食事中です
お食事後は、フロントまでご返却ください

一行目の、食事中です、の方が大きめのフォントで書かれることが多いでしょうか。
目的を果たすための、簡潔な文言です。

一行目は、テーブルの周囲を通りかかる人たちに向けられています。
二行目は、そのテーブルで食事をしている人に向けられています。

一行目は食事をしている人には向けられておらず、また、二行目は通りかかる人には向けられていないはずです。

見過ごせないところです。

一行目と二行目の間には、決して埋められない差異があります。向いている相手が突然変わるのです。
何のことわりも、前触れもありません。急に変わります。素直にカードを読んでいては、決して読みとることができない事実です。

私などは、一行目の後に断崖絶壁があって、大きな音を立てて世界が回転して、二行目に至っているように錯覚します。くらくらと目眩がしてきます。
二行の真ん中で何が起こっているんだと、思わずにはいられません。

どうも私は、こうしたことに過敏です。
数式や、プログラムのソースコードを読むことが多いためかもしれません。

ソースコードは、間違いなくコンパイラのために書かれます。ある一文はコンパイラのためにあって、次の一文が急に人間へ向けられることはありません。
他方で、ソースコードはコメントを含みます。そちらは間違いなく、処理を読解しようとする人間に向けて書かれます。
いずれにせよ、視点が前触れなく変わることはないのです。ソースコードとコメントは、絶対に混同されない形式になっています。

数式も同じです。
数学の話をするとき、数式の部分は、間違いなく数学のために書かれます。周囲の日本語は、数式を読解しようとする人間に向けて書かれます。ここが混ざり合うことはありません。

先に挙げたビュッフェのカードのように、混ざり合うようなことがあると、読むときに非常に疲れます。一文ごとに激しい目眩を伴うわけですので、当然です。

こうした、言葉が飛び交うような環境で疲れずにいるためには、独特な技術が要るのでしょう。

前触れなく視点が変わる、グラフィカルな言葉たちです。
惑わされないような技術を、たぶん、多くの人は身につけていることと想像します。意識されなくなった、名もなき技術です。

数式やソースコードを読むことに抵抗を持たれることがあるのは、このあたりの事情もあるかもしれません。

数式は、数学のために書かれます。ソースコードはコンパイラのためです。人間を向いていない言葉に乱入して、人間が理解しようとするわけです。
人間を向いたグラフィカルな言葉を理解するときとは、ずいぶん勝手が違うのだろうと思います。

両方の技術を身につけるのがよいでしょうか。
それなりに時間もかかります。どちらも独特の技術です。

いずれにせよ、一般的に言って、限られた資源をどのように使って、どういった技術を身につけていこうか決めることは、それなりに楽しいことです。
面倒ではあるものの、自分で組み立てる楽しさのようなものも味わうことができます。


終わりに


ことわりもない文章になってしまいました。

2014年11月2日日曜日

11月といえば自分の好きなブログを告白する月…ということです2014

ブログについて、あまり考えることなく生活しています。不思議なもので、新しいエントリを更新しようとする姿勢だけは失われません。私のことです。
期間が空いているようでも、私は常に次のエントリを書き進めています。

なんといいますか、いろいろありながらも、新しいエントリを作り上げようとする姿勢が自然と保たれていれば、人として、基本的に問題ないように感じています。

11月のこの季節だけは、ブログというものに思いを向けます。いよいよ寒くなってきたと思う気持ちと、ブログとは何かという思索は、私にとっての共感覚です。私は寒さが苦手ですので、ブログについて考えることが日常的でないのは、そのためかもしれません。

早く夏が来てほしいものです。

そう考えると、新しいエントリを書こうとすることは、すっかり私の日常であるわけです。思えば、よい習慣を持ったものです。
ブログを更新していてよかった、と思うことはあまりありませんが、ブログを更新するのをやめたくない、と思う程度には、ブログを更新していてよかったと思っています。

何の話かといいますと、11月といえば自分の好きなブログを告白する月です。
こういうことは、一生懸命やるのがよいです。

さっそく、はじめます。

***

見て歩く者 by 鷹野凌

一つめはこちらです。

ずっと読んでいます。
すごく誠実な人が書いているのだろうな、と想像しています。

誠実さというのは、伝えるのが難しい部類の性質でありましょう。
伝えられたほうも、嬉しいものです。

***

ザリガニが見ていた...。

二つめはこちらです。

あまり、中の人の感情が見えないように書かれています。
それでいて、コーディングを様々に挑戦していく流れは、非常にドラマティックです。

知的興奮というやつです。

***

Word Piece >>by Tak.:So-netブログ

三つめはこちらです。

日常のことが書かれています。アウトライナーのことも書かれています。
アウトライナーに出会ったことは衝撃でした。それから、日常に出会ったことも衝撃でした。

日常とはけっこう衝撃なものだと教えてくれるブログです。

***

R-style

四つめはこちらです。

R-style読者は誰しも、各々にとって聖典的な記事を抱いています。
私は、<価値とは、「見出される」ものだ>のあの記事は、そろそろ暗唱できるかもしれません。

***

delaymania

五つめはこちらです。

毎日更新が嬉しいです。
何かつらいことがあっても、一日の終わりにこちらのブログを読むと、元気になれます。

CSSの説明ですら、そうです。
私も、このような雰囲気で技術の話をできるようになれたら、などと憧れます。

***

iPhoneと本と数学となんやかんやと

六つめはこちらです。

考えることと、やってみることで満ちているブログです。

人生の目標と言うのがよいでしょうか。
心から尊敬しています。


終わりに


「聖典的」という言葉は、たぶん、ありません。
お気をつけください。

2014年9月30日火曜日

極端よりも少なめに

書籍『エピゲノムと生命』(太田邦史)に、人間の男女の出生比率についてのお話がありました。
人間の男女の出生比率は、人種や時代によらず、大体女児一〇〇に対して、男児が一〇四~一〇七ぐらいの割合になっています。
男児の割合が半分よりやや多くなるそうです。

結果はともあれ、統計として興味深いところがあります。前半の部分です。
人種や時代によらず、とまで言い切れるような統計を目にすることは、なかなかありません。多くのサンプルを調べていることが想像できます。信頼できそうな結果です。

統計というのは、サンプルが少ない方が、特殊で極端な結果になります。

統計の基本ではありますが、『ブラック・スワン』(ナシーム・ニコラス・タレブ)から引用させていただいて、確認しておきます。
あなたが住んでいる街には病院が二つあるとする。一つは大きく、もう一つは小さい。二つの病院のうち一方を選んで、ある日に生まれた子どもを調べてみると、六〇%男の子だった。選んだのはどちらの病院だった可能性が高いか?
長期的に見れば、男児がやや多いくらいになるはずです。
六〇%とは、想定しない結果といえるでしょう。そうした極端な事実は、サンプルの少ないときに起きやすくなります。
これは統計学のほんの基本だ。小さいサンプルよりも大きいサンプルのほうが安定していて、長期的な平均値からの乖離は小さい。
基本であり、大変に重要なことです。統計のようなものを読むときには、いつも注意されたいことです。

ところで、Google+ のポストで、次のような呼びかけがありました。

https://plus.google.com/104476632404018889675/posts/QdjwrBZSiLm
【もう一度、知的生産の技術を読み返す】という企画はどうでしょうか。今再読してみての感想を交換する的な。
書籍『知的生産の技術』(梅棹忠夫)を再読し、改めて感想を述べよう、とのことです。

同書には複数の、多重な話題があります。時と場合によって、さまざまに読むことができるはずです。
できれば、著者の梅棹さんの基本的な方針を反映するところを、よく読みたいものです。

意識してみると、梅棹さんは、情報の形式や規格化についてをよく気にしておられるように思えました。「きりぬきと規格化」と掲げられた章すらあります。

なぜ、形式なのでしょうか。思えば、形式は生産とは関係ないはずです。

反射的な回答はあります。
形式がそろっている方が、そのものを取り扱いやすいためでしょう。敷き詰めることも、積み上げることも、並べ替えることもたやすくなります。

しかし、取り扱いのしやすさに関しては、反射的で抽象の説明に終始しておきます。

それとは別の点で、確認しておきたいことがあります。

同書が、あくまで個人に向けて書かれていることを前提とします。「はじめに」から引かせていただき、確認しておきましょう。
知的生産の技術の公開をとなえながらも、この、知的作業の聖域性ないしは密室性という原則を、この本の全体をつらぬいてたもっていきたい。知的生産は、どこまでも個人においておこなわれるものである。
梅棹さんは、個人の知的生産に対する視点を持っておられるわけです。

先に確認しました通り、個人に関することだとサンプルが少なくなりますので、極端な現象が起きやすくなります。

個人を向いた知的生産は、この上なくサンプルの少ない状態です。常に、極端な事実を相手にしなければなりません。
このあたりに、形式を重視する理由があるような気がします。

私が取り上げたいのは、『知的生産の技術』の「日記と記録」の章です。
日記の形式を作ることについて、次のように述べられています。
日記は、人にみせるものではなく、自分のためにかくものだ。自分のためのものに技法も形式もあるものか。こういうかんがえ方もあろうが、そのかんがえは、二つの点でまちがっているとおもう。
二つの点とあります。ここでは、その一つめだけ取り上げることとさせてください。
自分のための日記に形式を決めることには、どのような意味があるのでしょうか。梅棹さんは続けます。
第一に、技法や形式の研究なしに、意味のある日記がかきつづけられるほどには、「自分」というものは、えらくないのがふつうである。
自分が偉くないから、形式を研究しておくのだといいます。

驚くべき指摘だろうと思います。
概要を想像しているだけでは決してたどり着かない、個人を向いた意見です。日記を書こうとしているのに、日記とはまるで関係のない、自分が偉いかどうかが問題になっているのです。
サンプルが少ないからこそ起きる、非常に極端な事実でしょう。

続きます。
いろんなくふうをかさねて、「自分」をなだめすかしつつ、あるいははげましつつ、日記というものは、かきつづけられるのである。
形式から離れていくということは、私たちに、より偉い個人であることを課します。
同じような構図を持つものは、世の中にたくさんあるようです。

そして、個人を相手にしている限り、極端な事実も取り扱わなければなりません。
事実が極端に流れていってしまうのを、形式を決めることでなんとか押しとどめようとするわけです。私が感じ取った、『知的生産の技術』の基本的な方針です。

とはいえ、どこまで極端に形式を押し付けてよいのかどうかは、議論の余地があります。梅棹さんが繰り返し述べられていることですので、かなりの程度はよいのだろうと思いますが、いかがでしょう。

極端よりも少なめに、半分よりやや多いくらいの割合がよいのかもしれません。


終わりに


本エントリ前半で、『ブラック・スワン』からのお話をご紹介しました。統計を読むときの、基本知識のひとつです。

ただし、同書の文脈は、教室ではそうした知識を身につけているのに、実践の場面で使えないことについてのものです。
当エントリからは読み取れませんでした。念のため、明示しておきます。

2014年9月15日月曜日

確認は仮設説まで

要素を分けることは、補助線を引くような感覚になるのかもしれません。現実の世界にはない線を仮設することです。

書籍『動的平衡ダイアローグ』(福岡伸一)には、要素を分けることと、科学の仕事についてのお話があります。
引用いたします。
科学は、対象を要素に分けるところからスタートします。科学では、それをしないと対象を理解したことにはならない。でも、現実の世界はもともと切れ目なくつながっているんです。
理解するために対象を分割するものの、それは現実とは違っているといいます。

科学には限らないことでしょう。

ここに何かの情報源があったとします。
人はそれを、観測して、解釈することができます。人が情報を確認するという手続きを考えたとき、観測と解釈とが、適当な割合ずつを占めているように思います。

情報を確認する手続きなるものについて、決めておきます。
それは値を持つもので、最大値は、情報を完全に正確に確認した状態だとします。
ふつう、私たちは最大値を得ることができません。いつも、物事を完全に正確に確認できるように努力しているのが、私たちであるわけです。

無理のない決め方かと思います。

情報の確認の量を観測と解釈とが決めることになりますので、次のような二変数関数を想定できます。

・引数1……観測の量
・引数2……解釈の量
・戻り値……情報の確認の量
・戻り値の最大値……完全に正確に情報を確認した状態

最大値は得られなくとも、戻り値をできるだけ大きくすることが目標です。

ちなみにこの戻り値は、状況によってさまざまな呼ばれ方をします。
理解している、確からしい、説得力がある、などです。

理論としては、観測と解釈には、任意の正の値を投入できます。解釈も、観測も、どれほど手間をかけても構わないわけです。

現実には、かけられる手間の制約があります。
観測と解釈の和をあまりに大きくすることはできません。また、観測する割合が大きければ、解釈のそれは小さくなるはずです。反対も同様です。

投入する観測と解釈の量について、採りたい方針を考えることとしましょう。
それぞれの特徴を探ります。

まずは解釈の方です。
解釈の便利な点は、伝達と蓄積ができるところです。

書籍『無限の始まり』(デイヴィッド・ドイッチュ)には、次のような話題があります。
著者のドイッチュさんが、大学院生だったころのお話です。
仲間の学生の何人かが研究の様子を見せてくれた。彼らは銀河団を、何と顕微鏡越しに観測していたのである。
星々を顕微鏡で見るといいます。
天文学者たちは当時、パロマ天文台掃天観測で撮影された写真を調べるのに、こうした方法を用いていたのだ。使っていた写真コレクションは、一八七四枚のガラス乾板のネガからなり、恒星や銀河は黒い形に、背景の宇宙空間は白く写っている。
空を写した写真を見ていたようです。

このとき、観測するのはレンズに映る白と黒です。
解釈は、それが顕微鏡で拡大されていること、元は天文台で撮影した写真であること、現像すると恒星が黒く見えること、そもそもある方角の夜空を写した写真であること、などです。

観測と解釈を共に使うことで、顕微鏡に星空を見ることができます。

さて、新しい写真を取り出すたびに、観測は一からやり直すことになるでしょうが、解釈は違います。一度でも解釈を得ていれば、使い回すことができます。
どこかで解釈に誤りがあれば修正できますし、人から教えてもらうこともできます。観測にはどちらも不可能です。

観測の特徴は何になるでしょうか。

書籍『脳の中の天使』(V・S・ラマチャンドラン)には、想像を絶する観測をする人たちのエピソードが多くあります。
脳梗塞になったイングランドのジョンさんは、目で見た対象物を、部分は見えているのに、全体としては認識できなくなってしまったそうです。

奥さんの顔も、鏡に映った自分の顔も、わからないといいます。
「それが自分だということはわかります」と彼は言った。「私がウインクすればウインクするし、動けば動くので。自分が鏡に映っているのはあきらかです。でも自分のようには見えないのです」
極端な例でしょうか。
しかし、これが観測です。当事者が観測したことが正解であるわけです。

もう一つ、観測と解釈とで、大きなトピックがあります。これらが、対称の変数でないことです。

投入できる観測の量には、物理法則とコストの点に、強い制約があります。遠すぎて見えないことも、小さすぎて聞こえないこともありますし、いつまでも見続けるわけにもいきません。
そのわりに、得られる戻り値はさほど大きくない量になります。これも物理法則のためです。人の視野や聞き分けられる音色には、限りがあるのです。

解釈はそうではありません。別に、解釈は光の速さで伝わっていくものではないわけですし、物理法則に制約を受けることもなく、自由に大きい量を扱うことができます。

ここまで、観測と解釈について考えてきました。どうやら、解釈の方が具合の良さそうな変数です。
解釈が多い状況の方を信用するのが安全そうですし、自分でも、解釈を多くするように心がけたいと思います。

直感に反する気づきかもしれません。

自分の目で見た、当事者である、といった観測を意味する言葉が、情報の正確さや説得力にとって、とりたててプラスにならないということだからです。マイナスの影響すらあり得ます。
解釈を多くとっていることの方が、ずっと効果があります。

当事者でなくとも、慎重に解釈を増やしている人であれば、説得力を感じるべきなのです。

とはいえ、情報を確認する手続きを、観測と解釈とに、簡単に分けてしまうことにも注意が要ります。現実にない線による、仮説かもしれません。

わかったことは、解釈が多い方が良さそうであることまでです。わからないことは、観測と解釈の間に引いた線のことです。

どちらも合わせて確認しておきます。


終わりに


要素を分割することと、線を引くということを、同じ意味の言葉として断りなく使ってしまいました。 少し、気になっています。