2013年9月30日月曜日

未熟な私のイメージ

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いつからか、知的生産というもののある一面に対して、ひとつ、明確なイメージを抱いていました。
別に、大騒ぎするような話ではありません。何かの対象があって、それに対して思うことがあったのです。日常に、頻繁に体験することです。

ただ、問題もありました。
そのイメージについて、うまく描写する言葉が見つからなかったのです。

基本的に、不便というのはこのような状況を指します。

ですが、あるときふと、私の感覚とよく一致する表現に思い当たりました。
(ふと、というのは言葉の綾です。実際は、一生懸命に考えて思いつきました。言及される価値のある事実かと思います。)

その表現は、いつのことでしたか、本ブログで用いました。「強靱な知的生産」というものです。

大変に、気分の良い表現です。便利であるとは、このような状況を指すのでしょう。

そこで本エントリでは、その「強靱な知的生産」のもとになったイメージについて書いてみたいと思います。なぜなら、便利だからです。
とはいえ、イメージはすでに明確にあります。仰々しい書き出しと比較して、ここからはそれほど厄介な話にはならないはずです。

まずご紹介したいのは、『知的生活の方法』(渡部昇一)からのエピソードです。著者の渡部さんが、その昔に、ドイツ参謀本部についての本を著したときのことです。なお、渡部さんは英語学者であり、ドイツの参謀本部については、肩書きとしては素人であったそうです。

状況を示す一文を引かせていただきます。
素人でも本の買い方を工夫すれば、専門家の書いたものにやや近いものができるという実例である。
何かしらの方針で、本を一生懸命買った素人のお話だということです。

ドイツ参謀本部にひょんなことから興味をひかれた渡部さんは、関連する本を買い集めることを、長い期間かけて続けたそうです。
いつしか、次のような状況に至りました。
日本の古本屋で集めたものもあるし、外国の古書店の目録で注文したものもある。あるものは全部読み、あるものは部分的に読んだ。そして集った西洋の戦争関係の本がいつの間にか、書棚の中で何メートルかを占めるようになった。
専門外のことにも関わらず、たくさんの本が集まりました。
いよいよ、次のような気づきにぶつかります。
こんな本をときどき開いて二十年近くも経てば、だいたいの構想はまとまる。そしてそれを本とする自信も湧く。
二十年近く構想を寝かせておいたら、自然と本を書く自信がわき上がってきたわけです。

これが、私のイメージにある「強靱な知的生産」です。膨大な蔵書と時間の上に、どうしても立ち上ってしまうようなものです。
もし、強靱ではない指向で知的生産が成り立つことがあったとしても、それはやはり強靱でないものとなるのでしょう。そして私は、強靱である方を良しとするような思想を持っています。

同じ類の話は、『「知」のソフトウェア』(立花隆)にも見受けられました。
引用いたします。
私は毎月、山のような雑誌に目を通している。まず一般週刊誌はほとんど全誌に目を通しているし、月刊総合誌もしかりである。月刊誌では総合誌だけでなく、若者向けの雑誌もかなり読んでいるし、さまざまのジャンルの専門誌をいくつか購読している。それ以外にときどき書店に行って、専門雑誌の書棚をのぞいては、さまざまの雑誌を買い込んでくる。愛読しているPR誌も何誌かある。
著者の立花さんが、継続して、多くの雑誌に目を通していることが述べられています。こちらも、抜群に強靱な知的生産を実現できるであろうことが想像できます。

なお、引用した文章に続いては、「こんなに大量に読むのは、職業上の必要に迫られてのことで、人には勧められない」との断りがありました。念のため、それもご紹介しておきます。

さて、強靱な知的生産の名の下に、二つのエピソードを見てきました。明らかに、本を読むということが話の基礎になっています。
そうして、本エントリの関心は、知的生産から読書についてに移っていくわけです。

特に言及したいのは、ご紹介した二つのエピソードが、読書においてどのような本を読むのが良いか、との設問に答えるものではないことです。読書について語ろうとしたときに、おなじみの話題であるにも関わらず、です。

本エントリでは、たくさんの本を、長期間かけて読むことについて表現しました。
それは、どういった本を読もうかと心を砕くことよりも、私の好む考え方です。

私の好む考え方が、間違っていることもあるでしょう。他方で、間違っていないこともあろうかと思います。
いずれは、絶対の正解に至ることができるのかもしれません。あるいは、どこまで行っても、個人の好みの問題以上にはならないのかもしれません。

せめて、自分がどういった思想を信じていて、どういった方針で行動していくのかは、よく考えて、明らかにしておきたいものです。不便だからです。

私などは、少しだけ好みの方向性があるという程度です。それは上述した通りです。
自分の信じる思想も、自分の行動の方針も、まるで把握していません。

まだまだ、未熟なようです。


終わりに


なにしろ私は、不便であることが良いことなのか、あるいは悪いことなのか、それさえも承知できていないのです。