2012年8月31日金曜日

きりのいい話

こんな私ですが、人並みに買い物をしたり、日常生活を送ったりしています。
すると、人並みの感想を抱いたりすることがあります。

感想に人並みも何もないような気はしますが、当然といえば当然です。

今回はそんな話です。


ぴったり


私の住まいの近所に、スーパーがあります。
それから、私は自宅にいつも牛乳とオレンジジュースをストックしています。

すると必然に、そのスーパーで頻繁にその二つを購入することになります。もちろん、牛乳とオレンジジュースがなくなるスピードは等しくありませんので、牛乳だけを買うことも、オレンジジュースだけを買うこともあります。

そして、当たり前ですが、それらを同時に買うこともあります。
そのお店で牛乳とオレンジジュースを同時に買うと、合計で256円になります。

レジで「256円になります」と言われると、「おお、ぴったり!」と感動します。
牛乳とオレンジジュースを買うのは初めてのことではありませんので、よく考えればレジで言われるまでもないはずですが、毎回感動します。

このところは、牛乳だけが必要な場合でも、一緒にオレンジジュースも買ってしまったりしています。
完全に、お店の販売戦略に乗せられています。後悔はありません。


きりのいい


考えてみると、ぴったりが特別な意味を持つような状況は、身の回りにたくさんあります。

このような記事を読みました。

投資も恋も「過去の思い出」に引きずられてはいけません~マネーハック心理学(2) : ライフハッカー[日本版]

引用いたします。
似たような話には「1000円単位の節目」のようなものもあります。「日経平均が10000円を回復した」とか「B社の株価が1000円を割った」というキリのいい数字を、弱気や強気のシグナルとするものです。
言われてみれば、9990円が10000円になるのも、10050円が10060円になるのも、現象としてはそれほど大きく変わるものではありません。
引用した文章の詳細や前後の文脈については、私には解説できませんので、リンク先をお読みいただければと思います。
いずれにせよ、良くも悪くも、ぴったりのものには何かしらの力があるようです。


ライフハック


ライフハックや仕事術界隈にも、こういった話はあります。

有名なものの一つとしては、「仕事をきりのいいところまでやらない」があります。
私から詳しくは述べないことにしますが、要するに、仕事をきりのいいところまで仕上げないでその日を終える(または、休憩に入るなど)ことにより、次にとりかかる際に仕事へのエンジンがかかりやすい、といった内容です。私個人としてもこれの効果はよく感じられますので、基本的に賛成です。

こちらは先の例とは異なり、積極的に「きりのいい」を否定しよう、避けよう、とするものです。

仕事を行う場合、「きりのいい」には良い面もあります。これには、タスクリストでタスクを完了にしたときの気持ちよさ、あたりを想像すればよいでしょう。しかし一方で、こと仕事に関しては「きりのいい」状況にたどり着くのはとても大変であるという事実もあり、これはどちらも確かなことです。
その意味では、「きりのよくないところで止めてもいい」と考えられることが、この手法のメリットに、ひいては仕事のやりやすさにつながっているのかもしれません。


活かす


このように考えていくと「きりのいい」をうまく活かしていく方法も見えてきそうですが、ある意味、それをプラスに利用するのは、意識しなくてもできることだったりします。
すぐ上の例で言えば、たいていの人にとって、タスクを完了にしたときの気分の良さは意識しなくても得られます。実際にタスクに取り組んで、完了させて、チェックを付ければ良いのです。

となると、気をつけておくべきは「きりのいい」のマイナス面の方になるでしょう。
今のところは「気をつけておく」くらいしか言えませんが、気をつけておこうと思います。


終わりに


このあたりの話は、私がとやかく言わなくてもきちんと研究がなされているような気がします。
関連する書籍が見つかれば、読んでみたいです。

2012年8月30日木曜日

そんなに単純なはずが

私が何かを考えるときの方針の一つに「そんなに単純なはずがない」があります。目を引く表現をするなら「トリガーワード」などとなりそうですが、そんなに大層なものではありません。何となく、いつもそんな方向でものを考えている、くらいのイメージです。

今回は、そんな話です。


この前の話


本ブログで下記のようなエントリを書きました。

23-seconds blog: ある言明がそれらしい

エントリ内「終わりに」節で、少しだけ「本質」についての話をしています。
大雑把に言えば、「私が使う本質という言葉に、それほど深い意味はない」との内容です。

これは決して昔から考えていたりはせず、上記のエントリを書いていた時分に、ふと思いいたったことです。
それほど深い意味はないと言っているのは、考えるほど深い意味がありすぎるように思えるので、そういう部分には目をつぶってこの言葉を使います、とのことを意図しています。

要は、私はこれまでこの言葉を考えなしに使っていましたが、このたび疑問が出てきたというわけです。


抽象


ところで、こういった話は例を持ち出した方がやりやすくはなりますが、そうするといらぬ誤解が生まれやすくもなります。
私にはその、誤解を生まないような例示を行える自信がありませんので、できれば、それに頼らずに進めたいものです。

話を戻します。
私がここで持ち出したいのは「抽象」との言葉です。
いま、「抽象」と「本質」との言葉を見比べてみたいのです。

ここに、「Aの本質はBである」との主張があるとします。私から指定はしませんので、必要に応じてAとBには適当なものをあてはめていただければと思います。

適当な定数が代入できましたら、考えていただきたいことがあります。
そのAとBの関係は、本当に「本質」か、ひょっとして、「抽象」だったりしないだろうか、とのことです。
AとBの関係が抽象であるとは、つまり、Aを抽象化したものがBであるということです。これは逆でも構いませんが、話がややこしくなりますので、「Aを抽象化したものがB」に限定しておきます。

それから、後々のためにもう一つ問いを用意します。

先ほど代入したAとBを元に、適当なB'を考えてみてください。
うまくB'を選ぶと、「Aの本質はB'である」との文章が成り立つようにできると思います。むしろ、これが成り立つようにB'を選んでください、と言う方がわかりやすいかもしれません。


中身


中身の話に入っていきます。

上述したうち、後半の話の方が直感的にわかりやすいです。
つまり、主張「Aの本質はBである」は正しいのに、「Aの本質はB'である」も正しくできてしまう、との話です。

これはすなわち、「本質」に相当するものが、同じAに対して複数あって良いのか、とのことを言っています。

私には、あまりそうとは思えません。
「本質」が、それを考える人の視点や状況などによって変化してしまうというのは、やや受け入れにくい話です。
もちろん、「本質」というのは流動的で頻繁に変化するものだ、との主張があっても良いのですが、本エントリではそうではないとして進めます。

そしてこれが、前半の話につながります。
「本質」が状況によって様々に変化するなら、それは「抽象」だとか、別のものなのだろうと思うわけです。なお、ここで言う「抽象」には実は言葉のこだわりはあまりなく、「概要」「大雑把」「要約」「俯瞰」などと置き換えてしまっても構いません。用いる単語は何であれ、だいたいそのようなことが言えていれば良いです。


わかりやすく


上で挙げた「抽象」「概要」「要約」といった言葉は、多くの場合、話を単純にしてわかりやすくするためのものです。
話を単純にしているなら、必ずどこかの面では物事を正確にとらえていないことになります。

もちろん、考え方によっては「本質」がこの並びに入るとしても良いのかもしれません。そこの解釈は自由です。

しかし、私には「本質」が「話を単純にするもの」であるとは、どうしても思えません。
感情の話ではあります。それでも、思えないのです。
「本質」とは、話し手の都合で自由に出したりしまったりできるものではないはずなのです。

さらにイメージの話に行きます。

「抽象」「要約」などの言葉は、対象からとても離れたときに、それでも見えるようなもののことを言っているように思います。
一方の「本質」は、対象にすごく近づくことによって、やっと見えるようになるものだと思います。

やはりイメージの話ですので、そんなことはないと言われたら、そんなことはないのかもしれません。


日本語


日本語を英語に訳すときに、だいたい同じ意味を持つ単語が存在していても、そのニュアンスなどに至るまで完璧に翻訳することはできない、との話をご存知の方も多いと思います。本ブログでも、「美しさに気持ちを」とのエントリで「美しい」と「beautiful」について触れました。
これは日本語と英語の関係に限らず、すべての二つの言語の組み合わせについて成り立つことでしょう。

他方、上で述べた通り、「本質」とは一定のものであり、それを考える人の解釈の仕方や置かれている状況にはよらないと考えます。

であるなら、物事の「本質」がそもそも日本語で表現できる時点で、かなりの奇跡です。日本語はこの世界でほんの何割かの人たちにしか使用されない、マイナーな言語であるはずだからです。

これも、「本質」と呼ばれるものはもっと大雑把で、言語による細かい差異など気になるようなものではない、と解釈するのも決して間違いとは言えませんが、私にとってはそれは受け入れにくいことなのです。


言い直し


いろいろ言いましたが、それほどたくさんのことは言っていません。

話としては、
  • 「本質」とは、何かを単純にするために用いる便利な言葉ではないだろう
  • 「本質」と「大雑把」がだいたい同じ意味ということはないだろう
とのことです。

本エントリの立場を採ると、「それは本質じゃないよね」との言明は、ほとんど何も言っていないに等しいことになります。


終わりに


それほどたくさんのことは言っていませんが、そんなに単純なはずはないのです。

ある言明がそれらしい

雲をつかむような話になってしまうものの、少し考えたことがあるので、書いてみようと思います。

それはそうと、その話とは何も関係ありませんが、「雲をつかむような」との素晴らしい表現を考えついた人に興味があります。
その人はどのような人で、どのような状況でこれを思いついたのか、についてです。

想像するに、やはり空を見上げていて、雲がつかめそうだと考えたのでしょう。あるいは、実際に手を伸ばしてみたのかもしれません。しかし、雲をつかむことはかなわなかったわけです。

何となく、この人とは仲良くなれそうな気がします。

こちらの記事を読みました。

こどもコンパス × ママコンパス | 今、ここにあるものを、さぁどうぞ。

とても素晴らしい記事です。
ここから考えることはいくつかありますが、とりあえず、私も少しだけ空を見てみようかと思いました。

今回はそんな話です。


ある言明


ここに、ある肯定の言明があるとします。
「AはBである。」というものです。

私から例示はしませんが、この形をした命題を一つ想像してみていただけると、今後の話がわかりやすくなるかもしれません。そのとき、想像する言明は一般論めいたものが良いでしょう。

さて、そのような肯定の言明に対して、おそらくそれを表明した人とは別の人によって、否定の言明がなされることがあります。今回の状況ではやや語弊があるようにも思いますが、多くの場合ではこれを反論と呼びます。

「XはYであることから、AはBではない。」
といった具合です。

多くの人は、このような反論を行った経験があると思います。
反論、との言葉には多少マイナスのイメージが含まれていますので、「反論したことがありますよね?」との問いかけに、素直にそうだと言いたくない気持ちが浮かんできます。ですがこれは「反論」の言葉の問題であって、本質には影響はありません。

(一般論めいた)肯定の言明に対して反論するためには、それなりの能力が必要です。そして同時に、反論することでその能力を表現しているということも、ある面では言えます。
確かに、(一般論めいた)肯定の言及を様々な根拠をもって否定しているのを目にすると、すごく何かの能力を持っているように見えますし、また、おそらく実際にそうです。

ですが、単純に「AはBである。」と「AはBではない。」を見比べると、どう考えても後者の方が含む範囲が広いです。「AはBである。」が成り立つようなある一範囲があるとしたら、それの否定はそれ以外の範囲すべてになるからです。

すると、何かしらの高い能力を持った人が言うことの方が、当たり障りがないということになります。すごいことをしているようで、ただ当たり障りのないことを言っているだけなのだとしたら、それは妙な話です。


それらしい


二つめの話です。
『100の思考実験』との書籍に、下記のような文章があります。

『100の思考実験』(ジュリアンバジーニ、向井和美) 
もっともらしく聞こえるパラドックスほど、深遠な思想という錯覚を効果的に生みだすものはない。
私は、この文章を読む以前からこういったことをよく考えており、これに出会ったときはなかなかに嬉しく感じました。

もう少し引用いたします。
自分でも作ってみるといい。簡単にできる。まず何か強調したいものを考える(知識、力、猫)。次に、その反対を考える(無知、非力、犬)。最後にそのふたつの要素を結びつけて、何かもっともらしいことを言うのだ。「最高の知は無知の知である」、「非力な者のみが真の力を知っている」、「猫を知るには犬も知れ」。ほら、たいがいはうまくいく。
まったくその通りです。簡単に、とてもそれらしい文章が出来上がっています。

私も一つやってみましょう。
「iOSの本当の価値は、Androidの中にある。」

何の話かさっぱりわかりませんが、確かにそれらしくなりました。


本当のこと


先の引用文では、この「それらしく見える現象」を皮肉めいた言い回しで説明しています。
それはそれで間違いではないのでしょうが、しかし、なぜこれでそれらしく見えてしまうのかについては判明していません。
(同書ではその方向に話を進めていませんので、当然ではあります。)

そして、私はそれについて、皮肉など一切なく、いたってまじめに「それが真理だから」という回答を考えています。

つまり、どんな単語を持ってきてもそれらしく見えるのは、それが本当にそうだからだと思うわけです。


雲


本エントリ前半の話も振り返ってみます。「AはBではない」についての内容でした。
これを、すぐ上の「猫を知るには犬も知れ」の話と組み合わせてみると、下記のようなことが言えます。
「AはBかもしれないが、AはBではない。」

細かい言い回しについての議論は置いておきます。
本エントリの二つの話を組み合わせると、だいたいこのようなことが言えるわけです。

するとやはり、能力のある人は真理を話していることになりました。


終わりに


ちなみに、私はよく「本質に影響はない」との表現を使いますが、本質に影響がないものがすなわち、完全に無視してしまって構わないものだとは思っていません。

本質に影響がないなら、本質ではないところにきちんと影響があるのです。
そして、物事が本質のみで構成されていない以上、決して切り捨ててはいけないものなのです。

私が言う「本質に影響はない」は、単に、
  • 今話を進めたい方向ではない
  • その方向はまだよくまとまっていない
  • その話をする時間がない
  • 疲れた
といった理由から「今ここでは文章化(または言語化)しない」というだけの意味です。

2012年8月26日日曜日

WIRE12、アフター

毎日がみっくみく!(挨拶)

ブログ「- 見て歩く者 by 鷹野凌 -」さんで、コンビニのファミリーマートと初音ミクのコラボ企画商品が、まとめて紹介されています。

ここでは、代表して一つの記事をご紹介させていただきます。

初音ミク×ファミリーマートコラボ商品を買ってきた - 見て歩く者 by 鷹野凌 -

こちらが企画のオフィシャルページのようです。

初音ミク×ファミリーマート コラボ商品が登場!|商品情報|FamilyMart

上記をはじめとした一連のブログ記事を読んで、とにかく素晴らしいと思いました。

「ブログには好きなことを書きなさい」といった、何のことだかよくわからない主張をたまに見かけることがありますが、それがここまでやるという意味であれば、心から納得できます。
圧倒的ですし、個性的ですし、情報としても大きな価値があります。

ですが、逆に圧倒的でも何でもない情報であっても、価値がないことにはなりません。
それは「ブログには好きなことを~」とはまた別の文脈から出てくることなのでしょう。

とはいえ、私は「ブログに何を書くか」といった話にはあまり興味がありませんので、ここは、「ブログ「- 見て歩く者 by 鷹野凌 -」さんのコラボ商品紹介記事シリーズが、とにかくすごかった」とのまとめといたします。

今回は、そんな話です。


考えない


これを書いているのは2012.8.26のことです。
去る2012.8.25~2012.8.26にはWIRE12なるイベントが開催され、私も参戦してきました。

WIREについては、本ブログの過去エントリで書いていますので、ここでは省略します。

23-seconds blog: 私とWIRE

普段から、重要なこともそうでないこともいろいろと考えている私ですが、一年の内でこの二日間だけは何も考えずに過ごします。
体が疲れてくるにつれて徐々に頭の中から何かがなくなっていく感覚は、言葉にはしにくいものの、なかなかに悪くありません。

そして、イベントが終わって外に出てくると、体は疲れていますが、頭が軽くなっているのを感じます。メモリのフリーとデフラグが済んだ状態、とでも言うのが良いでしょうか。

そして、唯一「テクノっていいなあ」との思いだけを持って、帰路に着くわけです。

「考えないこと」については、このような記事もあります。
冒頭に、見覚えのある記事が紹介されています(嬉しいです)。

R-style » 考えない方が出る答え

こちらの記事で述べられていることは、本エントリのこととは多少様子が異なりますが、いずれにせよ、普段から物事を考えすぎているような場合には、「考えない」との選択肢もあることくらいは知っておいても良いかもしれません。


WIREのこと


一応、WIREのことについてもざっと書いておきます。

ですが、今日あたりにインターネットを通してやりとりされる情報は、おそらくかなりの量が「今年のWIREはどうだった」といったものになるでしょう。
「あけましておめでとう」や「バルス!!」に匹敵するくらいだと思います(未調査)。

加えて言うなら、今後一週間くらいのテクノのCDや配信の売り上げを見てみると、昨日までより大きく増加していることが観測できるはずです。
多くの人が、「テクノっていいなあ」と感じたためです(未調査)。

WIRE12は、入場の時間が遅かったりと、例年と少し勝手が変わったように思える部分がいくつかありました。
もちろん、それで何か不便な思いをしたりといったことはなく、楽しく過ごせました。

ステージとしては、やはりまりんが良かったです。
4つ打ちじゃないWIREというのも、とても良いです。

フランク・ムラーも素晴らしかったです。大盛況でした。

そして、何といってもデリック・メイをこの目で見られたことは、一生の宝になるでしょう。


終わりに


「雪が溶けると何になる?」との話もありますが、WIREが終わると、いよいよ秋が近づいてきます。

それでは、「See you next year!」(挨拶)