2012年8月30日木曜日

そんなに単純なはずが

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私が何かを考えるときの方針の一つに「そんなに単純なはずがない」があります。目を引く表現をするなら「トリガーワード」などとなりそうですが、そんなに大層なものではありません。何となく、いつもそんな方向でものを考えている、くらいのイメージです。

今回は、そんな話です。


この前の話


本ブログで下記のようなエントリを書きました。

23-seconds blog: ある言明がそれらしい

エントリ内「終わりに」節で、少しだけ「本質」についての話をしています。
大雑把に言えば、「私が使う本質という言葉に、それほど深い意味はない」との内容です。

これは決して昔から考えていたりはせず、上記のエントリを書いていた時分に、ふと思いいたったことです。
それほど深い意味はないと言っているのは、考えるほど深い意味がありすぎるように思えるので、そういう部分には目をつぶってこの言葉を使います、とのことを意図しています。

要は、私はこれまでこの言葉を考えなしに使っていましたが、このたび疑問が出てきたというわけです。


抽象


ところで、こういった話は例を持ち出した方がやりやすくはなりますが、そうするといらぬ誤解が生まれやすくもなります。
私にはその、誤解を生まないような例示を行える自信がありませんので、できれば、それに頼らずに進めたいものです。

話を戻します。
私がここで持ち出したいのは「抽象」との言葉です。
いま、「抽象」と「本質」との言葉を見比べてみたいのです。

ここに、「Aの本質はBである」との主張があるとします。私から指定はしませんので、必要に応じてAとBには適当なものをあてはめていただければと思います。

適当な定数が代入できましたら、考えていただきたいことがあります。
そのAとBの関係は、本当に「本質」か、ひょっとして、「抽象」だったりしないだろうか、とのことです。
AとBの関係が抽象であるとは、つまり、Aを抽象化したものがBであるということです。これは逆でも構いませんが、話がややこしくなりますので、「Aを抽象化したものがB」に限定しておきます。

それから、後々のためにもう一つ問いを用意します。

先ほど代入したAとBを元に、適当なB'を考えてみてください。
うまくB'を選ぶと、「Aの本質はB'である」との文章が成り立つようにできると思います。むしろ、これが成り立つようにB'を選んでください、と言う方がわかりやすいかもしれません。


中身


中身の話に入っていきます。

上述したうち、後半の話の方が直感的にわかりやすいです。
つまり、主張「Aの本質はBである」は正しいのに、「Aの本質はB'である」も正しくできてしまう、との話です。

これはすなわち、「本質」に相当するものが、同じAに対して複数あって良いのか、とのことを言っています。

私には、あまりそうとは思えません。
「本質」が、それを考える人の視点や状況などによって変化してしまうというのは、やや受け入れにくい話です。
もちろん、「本質」というのは流動的で頻繁に変化するものだ、との主張があっても良いのですが、本エントリではそうではないとして進めます。

そしてこれが、前半の話につながります。
「本質」が状況によって様々に変化するなら、それは「抽象」だとか、別のものなのだろうと思うわけです。なお、ここで言う「抽象」には実は言葉のこだわりはあまりなく、「概要」「大雑把」「要約」「俯瞰」などと置き換えてしまっても構いません。用いる単語は何であれ、だいたいそのようなことが言えていれば良いです。


わかりやすく


上で挙げた「抽象」「概要」「要約」といった言葉は、多くの場合、話を単純にしてわかりやすくするためのものです。
話を単純にしているなら、必ずどこかの面では物事を正確にとらえていないことになります。

もちろん、考え方によっては「本質」がこの並びに入るとしても良いのかもしれません。そこの解釈は自由です。

しかし、私には「本質」が「話を単純にするもの」であるとは、どうしても思えません。
感情の話ではあります。それでも、思えないのです。
「本質」とは、話し手の都合で自由に出したりしまったりできるものではないはずなのです。

さらにイメージの話に行きます。

「抽象」「要約」などの言葉は、対象からとても離れたときに、それでも見えるようなもののことを言っているように思います。
一方の「本質」は、対象にすごく近づくことによって、やっと見えるようになるものだと思います。

やはりイメージの話ですので、そんなことはないと言われたら、そんなことはないのかもしれません。


日本語


日本語を英語に訳すときに、だいたい同じ意味を持つ単語が存在していても、そのニュアンスなどに至るまで完璧に翻訳することはできない、との話をご存知の方も多いと思います。本ブログでも、「美しさに気持ちを」とのエントリで「美しい」と「beautiful」について触れました。
これは日本語と英語の関係に限らず、すべての二つの言語の組み合わせについて成り立つことでしょう。

他方、上で述べた通り、「本質」とは一定のものであり、それを考える人の解釈の仕方や置かれている状況にはよらないと考えます。

であるなら、物事の「本質」がそもそも日本語で表現できる時点で、かなりの奇跡です。日本語はこの世界でほんの何割かの人たちにしか使用されない、マイナーな言語であるはずだからです。

これも、「本質」と呼ばれるものはもっと大雑把で、言語による細かい差異など気になるようなものではない、と解釈するのも決して間違いとは言えませんが、私にとってはそれは受け入れにくいことなのです。


言い直し


いろいろ言いましたが、それほどたくさんのことは言っていません。

話としては、
  • 「本質」とは、何かを単純にするために用いる便利な言葉ではないだろう
  • 「本質」と「大雑把」がだいたい同じ意味ということはないだろう
とのことです。

本エントリの立場を採ると、「それは本質じゃないよね」との言明は、ほとんど何も言っていないに等しいことになります。


終わりに


それほどたくさんのことは言っていませんが、そんなに単純なはずはないのです。