2012年7月7日土曜日

楽しさのためなら

Clip to Evernote
私は、毎日それなりの時間をRSSフィードを読むことに費やしています。
今の時代ですので、私がとりたてて変わっているようなこともなく、多くの方にとって同様かと思います。

一部では、RSSはすでに過去のものであるとの意見もあるようですが、ここではそういった方向には立ち入りません。
ここで明らかにするのは、RSSフィードを読んで情報を取り入れることについて、になるはずです。

今回はそんな話です。


RSSフィードを読む


まず大前提として、日常的に大量の新着RSSフィードをさばいていて、そこにそれなり時間を使っているような人を想定します。これは冒頭に掲げたとおりです。私もそうですし、多くの方もそうでしょう。

そのような人たちにとってRSSとはどのような存在なのかを考えたとき、以下の記事に参考になる一節があります。

シゴタノ! 年末に、情報環境の見直しを!

該当する部分を引用いたします。
それは、デザートを食べなくてもカロリー的には生命活動に問題ないけれども、それを食べるのを止めるのが難しい、というのに似ているかもしれません。
非常に納得のいく考え方です。
大量のRSSフィードを読む人にとって、それを読むことはデザートを食べることであり、生きていく上で必須のものではないのです。

ここから言えるのは、「RSSフィードは楽しいから読んでいる」との意識を持つのが良さそうだということです。またさらに、「RSSフィードを読むことに過度な期待を抱かない」ことも付け加えておきましょう。
つまり、日々RSSフィードを大量に読んでいることで、自分は何かすごくためになることをしていると思うべきではないのです。


読書する


ここで、少し別の話を持ち出します。
本を読むことについてです。

『知的生産の技術』に、以下のような文章があります。

『知的生産の技術』(梅棹忠夫)  
食事には栄養ないしは健康という面と、味覚のたのしみという面とがあるように、読書にも、精神の糧という面と、心のたのしみとしての読書という面とがあるのではないか。
読書することのある側面を、食事との対比によって明らかにしている文章です。
私はここで、読書には「勉強になる」ものと「単に楽しい」ものがあると述べられていると理解しました。
これは、普段から陽には意識に上っていなくても、言われてみれば確かに納得できることではあります。

同書では、次に以下の文が続きます。
栄養学と食味評論とがはっきりちがうように、読書論においても、技術論と鑑賞論とは、いちおう別のこととかんがえたほうがいいということなのである。
なるほどと思いました。
読書について考える際には、それが「勉強のため」なのか「楽しいため」なのかを分けて考えるのが良いとのことです。

こちらについては、私は考えたことがありませんでした。
私はいつも、読書からは楽しさも学びも感じていて、そのどちらに対しても「良かった」などと言っていました。

しかしここではそうではなく、「楽しかったら、どこがどう楽しかったのか」「学びがあったら、どこがどう学びだったのか」をはっきりさせるべきだと言っているわけです。


学びと楽しみ


この「学びと楽しみを分ける」ことを、読む前から行うのは困難でしょう。つまり、本を買うときあたりに「この本は学びのために(あるいは楽しみのために)読むぞ」などと考えることです。

おそらく、『知的生産の技術』でもそのようなことは言っていないと思います。
(これについてはまだ自信がありません。もう少し考えてみます。)

ですが、このことを何となくでも予想してから本を読むことには、私は価値があると考えています。「この本は楽しみのために読もう」と決めてから、読み始めるのです。

すぐ上に書いたとおり、この予想を間違いなく行うのは困難でしょう。
どんなに楽しみのために読もうとした本からでも、実利的に学べることは必ずあるでしょうし、その逆もまたしかりです。

それでも(「それでも」とは良い言葉です)分類を予想してから読書に臨んでおくと、読んでいてその分類を飛び越えたときの感動や革新さが際だちます。
各所で語られていることですが、用意していた分類に収まらなかったときが、新しいアイデアが生まれるときなのです。


RSSの話


ここで、RSSフィードの話に戻ります。

RSSフィードを読むことと読書することがどの程度似ているかの議論はここではしませんが、RSSフィードを読むことにも、上述した読書の分類の話があてはまるのではと考えます。
ただ、RSSフィードの場合は、読書で言った「学びがあるか、楽しいだけかの予想」が、「楽しいだけ」で固定です。これは本エントリの前半で述べたとおりです。
RSSフィードは、常に「これは楽しいから読んでいるんだ」との考えの下で読み進められるのです。

その中で、「これは勉強になった!」と思える記事に出会うことが出来たとすれば、すなわちそれが分類を飛び越えたことに相当します。
強力なアイデアに、革新になり得るのです。

もちろん、そもそも「勉強になった」とはどのようなことなのか、といった議論は決して無視できません。これについてはよく考えておく必要がありますし、難しいテーマでもあるでしょう。
少なくとも、それほど頻繁に起こる現象ではないのは確かです。


意識すること


本エントリで述べたことを踏まえると、生活とRSSフィードとの関わりで見えてくるものがあります。

一つは、RSSフィードを読むことで、自分がすごく成長しているだとか、学習しているだとか、過度な期待を抱かないことです。あくまで、自分が楽しいから読んでいるのです。
またもう一つは、楽しいから読んでいる中にあっても、そこから勉強になることに出会えれば素晴らしいし、分類を飛び越えているという意味において、それは革新であるとのことです。

そして、革新はそう頻繁に起こるものではないので、単に楽しいだけで終わることの方が多いのです。

ちなみに、私はこの「RSSフィードは、楽しいから読む」ことを割と以前から意識していますが、それを時間の無駄と言って止めるつもりはありません。
やはり、それは楽しいからです。その楽しさのためなら、時間をうまく使うことだって考えます。


終わりに


ところで、RSSに対しては「さばく」や「消化する」、「仕分ける」といった独特の動詞が使われます。
これは何なのでしょう。