2013年1月20日日曜日

しおりとかんしょう

Clip to Evernote
私は読書が好きです。
そのためかどうかはわかりませんが、本ブログでは、読書することについて幾度か取り上げ、考えてきています。いまや、読書に対して様々な意味が与えられていることでしょう。たぶん、私はいろいろ考えるのは好きな質のはずですので、悪くないと思っています。

他方、「読書すること」についてはいろいろと考えてきたものの、「読書しないこと」についてはそうでもありません。不覚でした。
読書することについて考えたのなら、そうでない方も考えておくのが筋のはずです。

読書にとって、本を読まないというのはどういうことでしょうか。
「読書にとって」と言っている以上、まったくもって本と縁のない生活を送る、といったことではありません。あくまで、本を読んでいく上で、本を読まないことについて問いを立てています。

私がこれを考えたとき、まっさきに連想したのが「本にしおりを挟むこと」でした。それが、何か特別な意味を持つことのように思えたのです。本にしおりを挟むことは、なるほど「読書にとって、本を読まないこと」に違いありません。

すると、本エントリの命題は「読書にとって、本にしおりを挟むこととは何か」と掲げることができます。

今回は、そんな話です。


しおりを挟む


その命題について見ていくために、ここでは「本」というものについて二通りの見方を持ち出してくることにします。
ここで言うのは、複数ある本をそのどちらかに分類できることではなく、一冊の本をどちらともとらえられる、といったことになります。これ自体は、さほど重要な話ではないはずです。

一つめの見方は、一冊の本は一つの「作品」だとするものです。もう少し言うなら、「完成された芸術作品」です。

この発想は、例えば次の記事で「限られた空間でパッケージするということの創造性」との言葉で触れられています。
素晴らしい記事です。

UI(ユーザーインターフェイス)としてのギャラリー|大山顕|ケイクスカルチャー|cakes(ケイクス)

このとき、本の読者は作品の鑑賞者に相当します。
美術館やギャラリーで、芸術作品を鑑賞している状態なわけです。

一冊の本は一つの作品であるなら、すなわち、そのものはそれ一つで完成していることになります。アーティストのメッセージが一つの作品に込められているように、著者の言いたいことが一冊の本に結実してきているわけです。

そこにしおりを挟むことは、取りも直さず、読者が完成された作品に干渉していることに他なりません。
アーティストとしての著者のメッセージはすでに本という形で完成しているのに、読者が手を加えて、多少なりともそれを改変しているのです。

すると、読者は本にしおりを挟んだ時点で、著者のメッセージを完全に正確には受信できないことになります。

これは、直感的にはネガティブな解釈をもたらします。
途中で本にしおりも挟んだりせず、著者が想定したとおりの読み方を忠実になぞることができない限り、著者のメッセージを正確に受け取ることができないのです。
これはかなりの困難に見えますが、私はこのこと自体は真だと思っています。要は、著者のメッセージを完全に正確に受け取ることは難しいのです。

一方で、その行為には自由があるとも言えます。
つまり、一冊の本という芸術作品は、読者が手を加えて改変してしまっても構わないような、インタラクティブな前衛芸術なのです。
著者のメッセージは、その意図したとおりには伝わらないかもしれませんが、予期せぬページにしおりが挟まれることで、そこにまた新しい意味が立ち上がってくることもあるわけです。

ここまで、本を「作品」とする見方での話でした。

二つめの見方は、本とは「世界」であるとするものです。
よく、読書に没頭することを「世界に入り込む」などと表現する人がいますが、それがこの見方に相当しています。その意味では、「作品」より自然だと言えるかもしれません。

「作品」との差異は、本と読者の位置関係にあります。
「作品」のときは、本と読者はどちらもこの現の世に存在していました。対等だったわけです。
本が「世界」になると、読者は文字通り本の世界の中に入り込みます。本を読んでいる間、読者は本の世界にいるのです。

そうすると、本にしおりを挟むこととは何かが自ずと見えてきます。
それは、読者が本の世界を探求することを止めて、こちらの世界に戻ってくることです。直感的に言って、本を読み進めなければその世界は回っていきませんので、しおりを挟むことで世界を停止させているとも取れるでしょう。

ですが一方で、この話に則るなら、しおりを挟むことなしに「世界」について思いを馳せたり、考えを深めたり、感傷に浸ったりすることは困難でしょう。「世界」の中にいるときは、それが進むことに遅れないようにするのが精一杯で、じっくり考えている暇がないのです。
そうでなくとも、世界の中にいるときにその世界に対して意識を向けるのは、わりと難しいことです。

さて、ここまで、「本」について二つの見方を提起することで「本にしおりを挟むこと」をいろいろ考えてきました。このあたりで良さそうな結論が出たような気がします。

本が「作品」であろうと「世界」であろうと、もし本をより良く、豊かに感じたいと思うなら、しおりを挟むという行為は悪くない選択肢になるかもしれません。


終わりに


「本にしおりを挟むこと」と「読書を中断すること」とは完全に等価ではないように思えますので、この話はまだ考える余地がありそうです。

とりあえず、本エントリでは完全に等価との立場になっています。