2013年1月27日日曜日

無感動な近道

Clip to Evernote
以前にも本ブログで紹介したことがあったと思いますが、少し前に、こちらの記事を読みました。

UI(ユーザーインターフェイス)としてのギャラリー|大山顕|ケイクスカルチャー|cakes(ケイクス)

とても素晴らしい記事でした。

この、記事タイトルにかかるような主張が、本文中で展開されるわけです。それ自体はここでは取り上げませんが、「写真」というものに長く関わってきて、様々なことを考えてきた筆者だからこそたどり着けた話なのだろうと思います。

本エントリでは、ひとつ、この「様々なことを考えてきたからこそ」との部分について取り上げてみようと思っています。
先の記事で出ていた主張そのものは、「写真」に興味のない人にとっては直接は有意味でないかもしれませんが、一方で、こういった「すごい人の話」は、こうして方々で形を変えて検証される価値があるわけです。
きっと、よくある話でしょう。

今回はそんな話です。


様々なことを


いま紹介したように、冒頭の記事では膝を打つような結論にたどり着いていました。そしてそれは、その事柄に長年関わってきた筆者ならではのものだと想像します。

一方で、その文章を読んだ私は「その事柄に長年関わって」いたりはしません。筆者のような結論に自力でたどり着くことは、決してあり得ないわけです。
にも関わらず、その画期的な結論を、私は同記事から知ることとなってしまいました。単なる知識として、手に入れてしまったのです。

ここには、間違いなく差異があります。
それは温度差とか、理解度とか、その他様々な呼称によって表されることでしょう。いずれにしても、それらは等価でないと言えます。

要は、近道をしてしまったのです。言うなれば、知識の近道です。
私が先ほどから「~してしまった」との文章を続けているように、直感的に言って、それはあまり良いことではないのでしょう。
この、「あまり良いことではない」ということにも様々な呼称があると思いますが、私はこれを「感動がない」と理解しています。

ここで言う感動とは、私の中では、日常で使用するそれとは少し趣を異にしたものです。
「気づき」「納得感」「腑に落ちる」「同意する」など、それから文字通りの「感動」も含む、できるだけ広い意味だと、私はとらえています。平たく言えば、心が動くこと全般、とでもなるかもしれません。

ともかく、上述したような「知識の近道」を使ってしまうと、そこには感動が起こらなくなって(あるいは少なくなって)しまいます。

今回の例では、感動がないことで何か大変なことになったりはしないでしょう。感動がないのは残念ですが、とりあえずは、それだけです。

しかし他方では、大きな問題が起きてしまうこともあります。
最もわかりやすい例は、人にものを教えるときのことです。

複数の人がいて、それがものを教える人と教わる人に分かれていた場合、教わる側で「知識の近道」が起きていることになります。
教える側はその知識に長いこと関わってきたのでしょうが、教わる側はそうではありませんので、知識だけ受け取っても感動がないのです。

教える、教わるで言えば、『思考の整理学』に、面白い話があります。
その昔、塾や道場に入門してくるような熱心な若者に、何かを教えるときの話です。

『思考の整理学』(外山滋比古)
じらせておいてから、やっと教える。といって、すぐにすべてを教え込むのではない。本当のところはなかなか教えない。いかにも陰湿のようだが、結局、それが教わる側のためになる。それを経験で知っていた。
同書におけるこの話は、本エントリの「知識の近道」に関するものではないと思いますが、そうだとして読み返してみると、また新たな発見があります。

さて、そこに感動がないことが大きな問題を引き起こすなら、何かしらの対策を考えたいところです。
ここには、教える側と教わる側の、引いて見るなら情報を発する側と受ける側の、二つの立場がありそうです。私は現状、情報を受ける側にいる方が多いものですから、とりあえずそちらに絞ることにします。

すぐに思いついて、そして私も実践しているのが、「そこに感動がないことに自覚的になること」です。だいぶ抽象的な物言いになりました。
つまり、単純に知識を仕入れたようなときに、「いま、知識としてはこれだけを得たけど、でも……」などと、余計なことを考え始めることです。
このとき何を考えるのがよいのかに対しては、今のところ(明確には)答えられません。それもあって、「余計なこと」との表現になっています。

それに追加する形で、もう一つあります。
それは、「知識の近道」が起きそうで、かつ大きな問題が起きない状況に、数多く身を置くことです。やはり抽象的な物言いになりました。
これは、例えば本エントリ冒頭に掲げたような記事や、書籍などを読むことなどが該当します。
要は、ここまでずっと述べてきたような、感動がない形で知識を得て、そしてそれを何とかしようとする経験を、普段からたくさんしておくわけです。経験もなく、いきなり「うまくいかなかったら大変なことになる」場面に放り出されれば、苦労するのは明らかなのです。

乱暴に言えば、「よく読み、よく考えよう」ということです。
きっと、よくある話でしょう。


終わりに


「余計なことを考え始める」とは、個人的になかなかしっくりくる表現ができたように思います。
今まで気づいていませんでしたが、私はわりと余計なことを考えているかもしれません。