2012年12月17日月曜日

Yはロジカルでない

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有名だと思っていたのですが、あまり目にすることがないのでひょっとするとそうでもないのかもしれない、という話があります。
せっかくですので、それが有名でないものとして、本エントリで説明を試みてみます。さしあたって、この話が私のオリジナルでないことを表明しておきます。

選択と、世界の分岐についての話です。

話には、背理法が用いられます。

前提はこうです。
「世界がはじめ一本線で進んでいたとき、ある選択を境に世界は分岐する」、さらには「仮にA、Bという選択があったとするなら、Aを選んだ世界とBを選んだ世界に分岐する」です。

もう少し細かくすると、A、Bの選択肢はどちらか一方しか選べませんので、(ここでAを選んだなら)「Aを選んだ世界」と「Bを選んだとしたら発生していたはずの世界」の二つに分岐して、Bの方は想像するしかない、との話になります。

平たく言うなら、何かしらの選択をしたとして、「あのときあっちを選んでいれば、ああだったのになあ」と嘆いているような状況です。

だいたい、状況はつかんでいただけたかと思います。ここまでが前提です。
そして、背理法ですので、この前提に従って話を進めると妙なことになるわけです。

一本線で進んでいた世界が分岐するわけですので、アルファベットの "Y" の字を使って説明するのが良いでしょう。 "Y" の下から上に向かって時間が進んでいき、二股に線が分かれるあたりで何かの選択があって、そこから世界が分岐するわけです。
「コーヒーを飲もうか、紅茶を飲もうか」との選択を迫られたとすれば、「コーヒーを飲んだ世界」と「紅茶を飲んだ世界」に分岐するはずだということです。なお、以降はコーヒーを飲むことを選択したとして進めます。

ここで、 "Y" の字のちょうど分岐点上では、まだ世界は分岐していないことを確認しておきます。分岐するのは、分岐点を過ぎてからであり、この分岐点上で何かが起こったわけです。
当たり前のようですが、重要な確認です。

問題なのは、その点で起こったことは何か、です。

分岐点の上で、「コーヒーを飲むという選択」が起こっているはずはありません。点の上ではまだ世界は分岐していないのですから、その時点ではコーヒーも紅茶も選んでいないはずです。
「コーヒーを飲むという選択」は、 "Y" の線が分かれた後のどちらかの線上にあるわけです。言うなればコーヒールート上です。

であるなら、分岐をもたらしているのは、まさに分岐点で起こっているのは、何でしょうか。
「コーヒーを飲むという選択をするという決断」でしょうか。しかし、それもすでにコーヒールートに入ってしまっています。
以降、選択に至る過程をどんなに細かくしていっても、ちょうど分岐点の上で起こっていることは明らかになりません。

あと取り得る可能性としては、「コーヒーを飲むという選択」が分岐点よりも前にあるパターンだけです。
ですが、これが良くないのは明らかです。分岐点より前はまだ世界が分岐していませんので、コーヒーも紅茶も選択されないのです。

ここまでで、場合はほぼ尽くしたかと思います。

これを満たすような解釈は、現状二つしかありません。

一つは、はじめから書いていますとおり、背理法を用いるパターンです。つまり、すべての場合で矛盾が生じたため、前提である「ある選択によって世界が分岐する」が誤りであったとするわけです。
これはすなわち、世界はずっと分岐などしなくて、別の選択をしていればあり得たかもしれない世界など、決して存在しないことになります。

もう一つは、少し上に書いた「分岐点上で起こったことは何か」に着目するパターンです。先ほどは「分岐点上」で発生したことが判然としないために、論理が破綻に至っていました。
これを成立させる解釈は、世界を分岐させる点の上では何も起こっていない、というものです。
ここでは、分岐した別の世界が存在することは否定しませんが、そちらのルートに入らなかったのは「自分が紅茶を選ばなかった」ためではまったくなく、単なる偶然であることになります。
自分の選択は、自分の未来を決定していないわけです。

まとめると、論理的な結論として、二つの言明に行き当たりました。
  • はじめからおわりまで、世界は一本線しかない
  • 分岐したとしても、それを分けたのは偶然であって選択ではない
直感には反しますが、論理的にはこう言わざるを得ないわけです。

とはいえ、それはそれとして、私たちはこの言明をどう受け止めるかを考えることができます。

個人的には、上の二つの言明はわりと悪くないと感じます。
この話があるから、何か決断しなければならないときに、(もちろん良い選択のために努力はしますが、)過度に悩まずにいられるのです。

逆に、これらの言明を悲観的にとらえる方もいらっしゃることでしょう。

ただ、生きていく上で、論理がどんなに違うと言っても、直感の方に従ってしまって構わないことはたくさんあります。たぶん、論理的であることがすごく偉いわけではないだろうと、私は思うのです。

論理的でも、そうでなくても良くて、そこには選択の余地があるわけです。


終わりに


せっかくですので、今日は紅茶を飲む選択をしようと思います。