2012年10月28日日曜日

仁和寺へ行く途中

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昔話をします。
昔話とは、つまりは昔の話のことです。

こう書いてしまうととても違和感があります。昔話とは昔の話である、とは同じことを繰り返しているだけで、何も説明していないように見えるためです。
ですが、昔話と昔の話が等価であることは、それほど自明ではありません。現に(うつつに、ではありません)、日常生活でこれらを混同して使用したなら、一定の混乱が起こることには間違いないでしょう。同様の意味で、実際にはこれらが混同されるようなことは滅多になく、大多数の人がこの間にある差異に気づいているとも言えます。

すると、「昔話とは昔の話のことである」とは、「昔話」との単語を全く別の言葉である「昔の話」を用いて説明している点で、いたって普通の文章ということになります。

にも関わらず、「昔話とは昔の話のことである」がきちんとした説明であるとするのは、非常に納得しにくい話です。

今回はそんな話です。


昔話


私はどうも昔から、何かのきっかけで一度始めたことを、何も考えずにずっと続けることが多いようなのです。ここが妙にふわっとした口調になっているのは、自分ではその自覚がさっぱりないためで、個人的には誰しもがそういった部分はあるだろうとは思っています。
つまり、「物持ちがいい」「ぶれない」「こだわりが強い」などと評されることが私は多いのです。これはしかし、私にとっては思ってもみないことで、むしろ、何のこだわりもないからずっと同じものを使っているのが実態だったりします。
(現に、新しいガジェットや音楽CDなど、好きなものに対してはきちんとぶれています。)

そう言われてふと考えてみると、私は飽きるという感情を持ったことがあまりないかもしれません。

思えば、小さい頃からその面影はありました。いえ、小さい頃の私だって私には違いありませんから、私の面影があるのは当然なのですが、とにかくその面影はありました。
ある日、お昼の給食でカレーが出たことがありました。さらに、その日は偶然夕食もカレーだったのです。私は母から尋ねられました。「給食もカレーだったの。ごめんね、飽きない?」と。
そこで小さい私はこう聞き返しました。「飽きるってなに?」と。
その後母がどんな返答をしたかは覚えていませんが、さぞかし困ったことでしょう。

しかし実際問題として、別に夕食のカレーを食べるときに給食のことをわざわざ思い出したりはしませんし、そもそも給食のカレーと母が作るそれで同じ味がしたりはしません。さらには、食べる場所も時間も状況も違います。すると、もはや飽きる要素が何もないように思えます。

ここまで、さも「昔の私は飽きるという感情を知らなかったけど、今はちゃんと知っている」かのように書いてきたものの、ふと、今の私もそれについてよくわかっていないことに気づいてしまいました。

急に不安になってきました。
飽きるとは、どんな感情のことなのでしょうか。現状、私には思い当たる節がありません。
「飽きる」の言葉とそれにまつわる状況については、社会を生きてきた中で学びました。だいたいどんなものかは想像がつきます。
ですが、私の中でどんな感情のことなのか、何も思い当たらないのです。

怖いので、この話はここまでにします。
少なくとも、私が「同じことばかりしているからそろそろ変えた方がいい」、つまり「飽きている」ことに気づくのは、周囲の人に教えてもらう必要がありそうです。

このように同じことばかりしているのは、「ぶれない」などと評してもらえる一方で、あまり嬉しくないこともあります。

ある、ほぼ毎日通っていた道のりがありました。ここでは仮に、自宅から仁和寺までとしましょう。
私はそれをヤフーマップで調べて、目印になる大きな道路や建物をもとに決定しました。

ひとたび道のりが決定してしまうと、私はそれについて何か考えることはしなくなります。もちろん、新しいガジェットのように大好きなものは別ですが、私はこれといって道に興味はありませんので、慣性の法則にしたがい、特に何も考えることなく毎日通っていました。

しかし、慣性の法則は外から力が加わらない限りでの話です。

しばらくして私は、出発点と目的地がだいたい同じの友人に出会いました。要は、自宅が近所で、私と同じように毎日仁和寺に行っている友人です。そして話の流れからして、彼が外からの力になるわけです。

その日は彼と行程を共にすることになったのですが、私が歩き出そうとすると彼は言うわけです。「どこに行くの?」と。
どこと言われても、私は彼と同じ道のりを行くはずです。不明なところはないでしょう。

ところが、よくよく話を聞いてみると、どうやら私はとんでもなく遠回りな道を行っていたようなのです。確かにそれはヤフーマップからは広くてわかりやすい道でしたが、いかんせん遠回りで、毎日飽きもせず使うようなものではなかったのです。

なんということでしょうか。

さて、それからは私も、友人から教わった新しい道を行くことにしています。
驚くことに、移動時間が半分程度になりました。

すこしのことにも、先達はあらまほしきことなり。


終わりに


本エントリでは、「うつつに」「むしろ」「さも」「さぞかし」など、好きな日本語をたくさん使うことができましたので、満足です。
「うつつに」は無理やりではありますが、よしとします。