2012年5月29日火曜日

矢のごとき不安

Clip to Evernote
このところ、日々の生活について気になっていることがあります。

今回はそんな話になります。


ままならない


ここ二週間ほど、なんと言いますか、日々の生活が思い通りにいっていないような気がしています。

自分の感覚を言葉にすると、月日が過ぎ去ってしまっている感じ、とでもなりそうです。
他方でわかりやすい言葉を持ってくるなら、やりたいことができていない感じ、となるかもしれません。

(このような表現になっているからには当然、「自分の感覚を言葉にしている」表現の方が、実感としては正しいように思います。)

決して、「重要だけど緊急でない」タスクに時間がかけられていないようなことはありませんので、このままでも今後何かしらの影響が出てくることはないとは思っています。
とはいえ、自分の毎日が矢のごとく過ぎ去ってしまうように感じるのは、気分が良くないものです。

得体の知れない不安のようなものが突き刺さってきます。

何かしらの対策を取りたいところです。


記録を取る


やはり、これに対抗するには記録を取ることです。

もちろん、これに関しては人それぞれ様々な対抗手段があるはずですし、各個人に合った方法を用いるのが一番だと思います。

いずれにせよ、私にとってのその方法は記録を取ることです。
記録には、過ぎ去っていく時間をほんの少しだけ引き止めてくれる力があります。あるいは、そう信じています。


得体の知れない


ここで取り上げたいのは、記録を取ることそのものではなく、すぐ上に書いた「人それぞれの対抗手段」の方です。

誰しも、人としてなんだかんだと毎日生活していると、特に「時間」の有様について、得体の知れない不安のようなものが現れてくることがあるでしょう。
ただひたすらに時間が流れていくことに恐怖を感じたり、何がなんだかわからないままに時間に追われているような気がしたり、といったことです。

このようなことは、時間というものの性質から言って、完全に避けて通ることは不可能な類の感情です。すなわち、程度の大小はあれど、時間に関する恐れのようなものはどんな人にもあるはずなのです。

すると、そこには「人それぞれの対抗手段」が登場してきます。

この「手段」は、実際にはどんなものでも構わないと思っています。
今のところ私には実例が思いつきませんが、その人が時間に対する不安に対抗できると思えるものであれば良いのです。

そして、ここに私は「記録すること」を持ってくるわけです。

記録することにそれほどの価値があるのかとか、過ぎゆく時間を本当に引き止める力があるのかとか、そういった議論はすべて脇によけてしまったとしても、誰もが抱く時間への不安に対して、「これで対抗できる!」と信じられるような手法を一つでも持っておくのは、決して悪い話ではないと思うのです。


不安を感じている


ここまでで、自分の日々の生活において、その時間の使い方を思い通りにできていない、すなわち時間が何となく流れて行ってしまっているときの対応についてを述べました。
要するに、自分なりに信じられる対応策を持っておく方がきっと良いはずで、私の場合ではそれは記録することである、との話です。

であるなら、次の課題として、「最近、時間が流れていってしまっている」と何をもって判断するのかを考える必要が出てきます。
つまり、時間の流れについて不安が出てきている状態とは、自分がどうなっていることを指すのか、の指標のことです。

もちろん、そう明確な指標がそこに現れるとは思いませんし、「不安に感じているから不安である」でも別に構わないとは思います。
しかし、何か判断できる材料がある方が、それを基にしてより深い結論を出すことができます。

そしてと言いますか、やはりと言いますか、私はここにも「記録」を持ってくることにします。
「記録が残される量が少なくなってきたら、私は時間について不安に思っている」との判断基準です。


単純


これは、ある側面からはとてもわかりやすい判断基準です。
なぜなら、量が多い、量が少ないとのことは、数値化して比べることができるためです。例えば、「普段は一日一ページの記録があるのに、最近は半ページしかない」のようにです。

ところが、一歩引いて見ると多少わかりにくくなります。
  • 記録が少ないと、時間への不安がある
  • 時間への不安があったら、記録を取る
本エントリではこのように述べてきたわけですが、話を単純にするのが好きな方にとっては、私は「記録が少ないから、記録を取る」ことをしているように見えるかもしれません。

もちろん、私としてはそのようなつもりはありません。
ここに出てくる、
  • 記録が少ないこと
  • 時間への不安があること
  • 記録を取ること
は、それぞれたくさんの要因から発生して、そしてたくさんの影響を周囲に与えています。

そのうちの、ほんのわずかな一部分だけを、本当はそんなことは不可能かもしれないにも関わらず、無理やり切り取ってきて、こうして日本語にしているに過ぎません。

確かに、見えている部分は単純です。
ですが、それしか見ないでいるとわからないこともきっとあるのです。


終わりに


かといって、ひたすらに見えないものを追いかけるのが良いとも限りません。
そして当然、「だから、バランスが大事ですね」といった単純な結論にもなりません。

そういったことをすべて含めても、「不安なときに信じられる手段があるのは、悪くない」はずなのです。