2012年3月3日土曜日

言葉を定義すること

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言葉を定義することについて、少しだけ考えてみました。

特別きっかけなどはなかったように思いますので、おそらく常々考えていたのでしょう。


定義する


定義するという言葉には、発言する人が自由に決めていい、といった雰囲気が含まれています。「私はこの単語を、これからこういう意味で使います」などの、宣言のようなものです。

論理的にはそのような表現で間違いないのでしょうが、実際にはそんなはずはありません。
「これから私は、"definition" を "liberty" の意味で使います!」と宣言されても、以降の意志疎通に支障が出ることは明らかであり、これはここでいう「定義」が、誰にとってもなじみのないものであることに起因します。

従って「定義する」には、ある程度の知識や認識が共有されていることがどうしても前提にあります。


数学と日常会話


本エントリでは、そのスコープを数学と日常会話に限定することにします。

数学の世界では、定義することにはそれなりの価値があります。
数学は定義を基にして話が進んでいくためです。

その「話が進む」とは、人間が理解しているか否かとは関係のない文字の上での現象であり、見えているものが必要な情報のすべてです。数式がずらっと並んでいるところで、途中に書いていない部分があり「そこは何となく書かなかった」などと言われては、話が数学的になりません。

また、定義することは、その言葉が何であるかを決めることと同時に、それ以外の何かではないことも規定します。
数学的な話のためには、それも(あるいは、そちらの方が)非常に重要です。

ですが、先述した「ある程度の認識の共有が前提」についても、この数学の話に適用されます。
数学の話をするとき、いちいち「ここでいう"1"とは何か」「"+"とは何か」といったことは、定義しないためです。"1"や"+"の用法によほど誤解される可能性がない限りは、前提となっている認識を基にして進んでいきます。

さて、一方の日常会話です。

まず、会話には「文字の上でのやりとり」と「人間の理解」という二つのレイヤが存在することを確認しておきます。
本ブログでは何度か語ってきたような気がしますが、この二つには明確な差があり、「理解」の部分は絶対に文字では表現できませんし、「文字」はそのままでは理解できません。


終わりに


どうも、この先長くなりそうな予感がしてきましたので、本エントリはここまでにしておきます。

とりあえず今回のまとめとしては、
  • 厳密な定義であっても「認識の共有が前提」であること
  • 「文字」と「理解」は相容れないレイヤにあること
であるとします。

こういった話は、書くのは楽しいのですが、読むのはまるで楽しくないのが問題です。