2012年3月31日土曜日

目的と手段

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たった今、非常に驚くべきことが起きました。

ブログを書き始めようとポメラを取り出したのですが、電源を入れる直前に、「ああ、その前にRSSの未読を確認しておこう」と思ったのです。
私は、今日のブログでは「目的と手段」について書くことを予定しており、それを考えながらのRSS確認でした。

そこで発見したのがこちらの記事です。

情熱の矛先を決める!「手段」が「目的」になったときこそ最高!! | jMatsuzaki

なんと、まさに「目的と手段」に関する、素晴らしい記事でした。

私にはこれほどの記事は書けません。
一瞬ブログを書くのを諦めそうになりましたが、同じテーマでも、書いてみれば新たな切り口が見つかるかもしれませんし、それ以前にこの話をしておかないと本ブログが先に進めません。

という訳で、今回は「目的と手段」についてです。


目的と手段


かねてから、私は「目的と手段」あるいは「手段が目的化している」といった表現に、引っかかるものを感じています。特に、「手段が目的化している」がまるで良くないもののように言われている際には、それを強く感じます。


記事を読む


このことはかなり昔から考えていたように思うのですが、あるとき以下の記事を読み、非常に感銘を受けた記憶があります。
(「記憶はあてにならない」という話は置いておきます。)

034 「所詮」心構えの話にすぎませんが – ライフハック心理学

引用いたします。
どんな行為でも「これは目的」で「こっちは手段」ときれいに分解できるわけではありません。
これが、私が手段と目的の話を嫌う一つめの理由になるはずです。
記事内でも述べられていますが、手段と目的の分類は人によって異なるでしょうし、同じ人でもその瞬間で異なってくるはずです。
したがって、常時変化し続けるものに対して、人間が「これは手段」「これは目的」と認識するのは不可能です。

それにも関わらず、「手段が目的化している」と言って批判するのは妙です。

また、手段と目的の分類を突き詰めれば、すべてのことは生きるという目的のための手段になってしまいます。
ここは個人差があってしかるべきですが、私はこういった話が好きではありません。

そういった類の話ではないのです。
無理を承知でこの文脈で物を言うなら、どんなことでも手段であって、どんなことでも目的です。


二つめの理由


話を進めるために、大雑把な認識としての目的と手段があると仮定します。

この場合、「手段が目的化している」との文言は「手段にこだわりすぎている」ことを意味しているはずです。

さて、ある目的を達成するための手段が何でもいいということは、まずありません。
あえて具体例などは出しませんが、ぜひこれを読んでいただいている方が頭の中で挙げていただけると良いです。
(「頭の中で」がポイントです。)

これが二つめの理由になり、こちらの方が直感的にわかりやすいと思っています。


終わりに


どうやら、冒頭で掲げたjMatsuzakiさんの記事とは似ていない話になったようで良かったです。
そちらの記事は本当に素晴らしいので、ぜひ読んでいただきたいです。